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新宿日本語学校の江副校長来伯=日本語センターが顕彰プレート ニッケイ新聞WEB版より

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新宿日本語学校の江副校長来伯=日本語センターが顕彰プレート ニッケイ新聞WEB版より

来社した江副隆秀校長と広報・ポルトガル語担当のルイス・マルチネス先生

 7月18~20日に行われている「第62回全伯日本語教師研修会」で講師を務めるために来伯中の、学校法人江副学園新宿日本語学校の江副隆秀校長(68、東京都)と、広報・ポルトガル語担当のルイス・マルチネス先生(37)が18日に来社し、新しい江副式の教材や日本の日本語教育業界の現状について語った。「120人の生徒がいる」というフランス分校で教えた後、伯国まで足を伸ばした。
 独自の日本語教授法「江副式教授法」で外国人に日本語を教えている江副校長は、講師として同研修会に10年間連続で参加している。18日の同研修会開講式では、伯国日本語センターの日下野良武理事長から顕彰プレートが授与された。江副校長は「毎年1~2週間来ている。その活動が認められたのは嬉しい」と喜ぶ。
 楽しみながら学習できる教材として、日本語教科書とスマートフォンのアプリケーションを紹介。日本語教科書の写真をアプリで読み込み動画をダウンロードすると、実際に会話する様子や文字の覚え方、日本語独特のニュアンスを感情認識ヒューマノイドロボットのペッパーくんが解説する様子が流れる画期的なツールだ。
 江副校長によれば、教科書をスキャンすると音声が再生される「サウンドリーダー」と使い分けて利用すると効果的。
 日本語教育業界では「ここ数年で日本語学校は400校から700校に増えた」と説明。だが、新宿日本語学校はそのブームに乗ろうと考えず、あえて生徒数は現状維持の550人。「でもブラジル人はほとんどいなくて、アジア系がほとんど」。
 国内でも、「遠隔での講座」を行う。工場地帯である山形県は働く外国人は多いが、日本語教室がほとんどない。そのような周りに日本語教育機関がない地方や、ミャンマー等の外国人に人気の講座となっている。
 伯国については「10年前は、日本語教育を受けるのは日系人ばかりだったが、今は非日系人の勢いが凄い」と感想を述べ、当地の変化も実感していた。



《ブラジル北東部》空港落成式に知事ら欠席=大統領の失言の余波続く=警備で責任のなすり合いも ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル北東部》空港落成式に知事ら欠席=大統領の失言の余波続く=警備で責任のなすり合いも ニッケイ新聞WEB版より

落成式でのボウソナロ大統領(Alan Santos/PR)

 ボウソナロ大統領は23日、バイア州ヴィトリア・ダ・コンキスタのグラウベル・コッシャ空港の落成式に参加したが、バイア州知事や州議会議長は欠席。警備を巡り、大統領と知事の間で責任のなすり合いさえ起きたと22、23日付現地紙サイトが報じた。
 落成式は23日午前11時からで、大統領は同日朝、バイア州のルイ・コスタ知事(労働者党・PT)が軍警の派遣を許可しなかったのは「嘆かわしい事」と発言した。
 これに対し、コスタ知事は、落成式は連邦政府の行事であり、大統領の警備は連邦レベルの治安関係者の責任と反論。空港には大統領支持者だけでなく、大統領への抗議の意を表明したい市民も集まるとし、「抗議のために集まる人々に攻撃を加えるために州軍警を派遣する事は出来ない」と語ると共に、空港は軍兵士と板囲いで囲まれている事も明らかにした。
 今回の空港落成式は、19日に起きたボウソナロ大統領の失言問題後、初めての北東部でのイベントだ。大統領が落成式の中で、「私は北東部を愛しているし、政党などへの偏見はない」などと説く様子は、空港外に設置された大スクリーンにも映し出された。
 なお、問題の失言は、19日朝の外国人ジャーナリストとの朝食会に先立ち、オニックス・ロレンゾーニ官房長官と交わした非公式の会話の中で起きたものだ。
 ボウソナロ大統領は官房長官に「あのパライバの知事達、中でも最悪なのはマラニョン州知事」と耳打ちしたが、この言葉をマイクが拾い、朝食会の録画の一部として流れてしまったのだ。
 北東部の知事達は同日中に、「自分達は憲法と民主主義の原則に則り、連邦政府と生産的な関係を保とうとして来た。政治的な立場の違いを超えて、常に国民生活の改善をめざし、対話や協力に努めて来たのだ。我々は今、大統領発言に驚きと深い憤りを覚えている。ここに大統領側の釈明を求め、再度、連邦主義と民主主義を擁護する」との文書を提出したが、大統領府はコメントを避けている。
 コスタ知事は22日、落成式はバイア州政府が連邦政府を招待して行うはずだったのに、連邦政府が北東部やバイア州の人々を除外し、大統領支持者中心の僅かな人のみを招待し、党大会に準ずるイベントとしてしまったとして欠席を表明。
 サルバドール市長のACM・ネット氏(民主党・DEM)やヴィトリア・ダ・コンキスタ市長のエルゼン・グスマン氏(民主運動・MDB)は出席したが、州議会議長のネウソン・レアル氏(進歩党・PP)や空港の名前となった科学者のグラウベル・ロッシャ氏の娘パロマ氏は、知事に連帯して、欠席を決めた。
 新空港は、連邦政府が7400万レアル、州政府が3100万レアルを投じ、5年間かけて建設された。営業運航は25日からで、バイア州からミナス州にまたがる近隣100市の住民230万人の必要に応える事になる。

アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(1) 2019年7月23日  汎アマゾニア日伯協会会報『パンアマゾニア』266号31ページから35ページにかけて、堤剛太同協会副会長が書いた記事

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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(1) ニッケイ新聞WEB版より

 汎アマゾニア日伯協会会報『パンアマゾニア』266号31ページから35ページにかけて、堤剛太同協会副会長が書いた記事を、本の許可を得て転載する(編集部)。
 その足跡 ①
 第一回移民が到着
ベレンに上陸する移民達
 2019年、当地北伯日系社会は、日本人移民入植90周年記念の年を迎えます。これまでに、小誌(『パンアマゾニア』)では、機会ある事にアマゾンの日本人移住の歴史を取り上げてきています。
 今号では、これまでの記録ではあまり記されていなかった第一回移民到着当時の様子を、別の観点から書いてみたいと思います。
 1929年(昭和4)7月24日、南拓(南米拓殖株式会社)が送り出した第一回のアマゾン移民43家族と単身者9名の合計189名は、神戸港から大阪商船のもんてびでお丸に乗船しリオ・デ・ジャネイロへ寄港したのが9月7日夜、丁度ブラジルの独立記念日であった。
 もんてびでお丸に乗っていた当時12歳の大橋敏男少年は、港を埋めている船舶がイルミネーションで飾られ、軍艦からのサーチライトが夜空を煌々と照らし出す光景に目を見張り、「ブラジルの人達が自分たちをこんなに歓迎してくれているとは」と、感激した事を自叙伝に記している。
 もちろんこれは、独立記念日を祝うためのものであった事を大橋少年は後で知るのだが。
 リオのイーリャ・ダス・フローレス(花の島)移民収容所には、南拓取締役新井高次農学士並びに監査役前田光世(コンデ・コマ)がベレンから一行を出迎えに来ていた。
花の島での集合
 この収容所で撮影された、移民達の集合写真は有名でアマゾン移民を紹介する記録には決まって登場する写真である。
 実は、この写真は単なるブラジル上陸記念の写真ではなくれっきとした撮影動機があったのだ。
 それは、排日運動のさなかアマゾン地方の発展の為に日本人移民を誘致しようとリオの日本国大使館を訪ね、この日の第一回移民を実現させた最大の功労者であるパラー州前州統領ディオニージオ・ベンテス上院議員が、同じくパラー州出身の有力政治家デオドロ・デ・メンドンサ下院議員を伴い8日同所を訪問してきたのである。
 この恩ある人物の収容所訪問に、移民一同は敬意を表し両議員との記念撮影を行ったものであった。
 移民収容所は、グァナバラ湾内にある花の島という美しい名前の島内にあったが、1883年に建築された建物は古く薄汚れ室内の鉄製ベッドは錆だらけで、当時ここへ宿泊した人は「獄舎のようだった」と、懐古している。もっとも、本当の刑務所になるのは1932年からであるが。
 翌8日、リオからベレンまで移民達を運ぶ「まにら丸」に乗り換え出港。大西洋を北上しアマゾン河河口のサリーナスの寒村から、グァジャラー湾へと入ったのが9月16日午前7時半頃であった。
 現在でもそうだが、アマゾン河を大型船が通航する際には「プラチコ」と称される水先案内人が船に乗りこみ操船をするようになっている。
 これは、アマゾン河の水量が秒当たり8万立方メートルという膨大なものの為に、大量の砂が上流から押し寄せ河の瀬が始終移動している事から、大型船だと浅瀬に乗り上げ、座礁の可能性が高いからである。
 と、言う事で「まにら丸」に乗り込んできたのはマヌエル・ド・エスピリット・デ・ブラガンサというベテランのプラチコで、第一回移民船の舵取りをしたおかげでその名前を記録に残す栄誉を受けている。
因みに、まにら丸の船長は大野にすけと言う人物であった。(つづく)

『最高齢文学賞受賞者』を目指す井川 実さんの80歳で書いた短編紹介

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『最高齢文学賞受賞者』を目指す井川 実さんの80歳で書いた短編紹介


和田さん、丸木さん, みなさま


            井川です


メールうれしく拝受しました。私の作品を・・・という有難いお言葉ですが、実は昨年80の節目で癌になって、『終活』でそれまでの駄作群を(身の恥)と思い全部処分してしまったので、お見せするような作品は無いのです。どうせ、母の生前『あんたの小説読んだら、頭痛うなんねん』と(妻にも)悲鳴をあげられたような面白くもない作品ばかりでしたが・・・。しかし、50年の皆様にはいろいろの楽しい文や絵画や写真を見せていただいていますので、何かないかと、懸命に身辺を探すと、今年一月号雑誌パンプキンに出たエッセイがありました。毒にも薬にもならない、肩の凝らない気楽な作文です。最近はこういう短文やテレビシナリオを書いて酒代を稼いでいます。見にくいかもしれません。ご勘弁ください。

 

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○○賞を取ったら銀座のキャバレーでドンチャカやろうと、ご存知のSさんと約束していましたが、まだ果たせないうちに、去年「白ばら」が閉店してしまいました。それでも、今年こそ、と気合を入れ始めると、すぐ『心不全』を宣言され、麻生さんと同じように血管にステントを入れる手術を受けました。けれども、もうそんなことでくよくよするお歳ではありませんので、


もう失うものは何もない、と、どっしり腰をすえて、『生きてるうちは書きまくる』ことにしました。なんとか丸木さんの『金メダル祝賀会』までには、おもろい小説で『最高齢文学賞受賞者』になれるだろうと思っております。


ところで、50年のみなさま、おひまなら、この『最高齢受賞』作戦に参加されませんか? 神戸の三宮あたりには、まだキャバレーも健在のようですし・・。月刊『公募ガイド』で文学賞の詳細はごらんになれます。もしご希望でしたら、小生が抜粋してご紹介申し上げますが、いかがでしょうか? 和田さん、丸木さんもいかがでしょうか? ブログ管理や水泳でお忙しいでしょうが、50枚程度の短編もありますし、もっと短い17音の俳句や川柳もありますよ。


 最近の小生の愚作です。  猫舌も 助平も馬鹿も 遺伝です  いーじー (週刊文春・テーマ『猫舌』)


人気なき 商店街に 触れ太鼓  一太郎(伊藤園、お~いお茶俳句入選) お粗末でした。 OBLIGADO!

アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(2)ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(2)ニッケイ新聞WEB版より

南拓移民収容所
 同船は、ベレンの町のVal de Caes地区(空港付近)の対岸にある小さな島フォルチーニョ島の後方を流れるミーナスゼラエス水路に停泊した。この辺りは、グァジャラー湾内で水深が一番深い場所(7mから10m)で、移民一行は翌朝から河船でベレンの町へと向かい、上陸を開始している。
 これまで筆者は、まにら丸が停泊した位置はベレン郊外のイコアラシーの町の沖合で、また上陸した桟橋もイコアラシーの大桟橋と思いこんでいたが今回、当時の地元の新聞を読んでいてその間違いに気付いた。イコアラシーよりもっと湾内つまり、ベレンの町に近い移民収容所近くであった。
 移民の通関手続き所には、南拓の福原八郎社長やマリオ・ギマランエス秘書、南拓職員その他、コンデ・コマ(前田光世)夫妻等が立ち会っていた。
 南拓が所有する移民宿泊所は、グァジャラ湾岸にある400人収容のクーロ・ヴェーリョの建物でまた、船が接岸できるように140メートルの長さの桟橋もこの日の為に改修されている。
 桟橋付近には、初めて日本から来た移民を一目見ようとたくさんの市民達が集まっていたと当時の新聞が報じている。パラー州とベレン市では、この9月16日を記念してアマゾン日本人移民の日と制定している。
 ところで、当時の新聞記事によると日本人移民がベレンへ上陸したのは189名でなく185名となっている。
 これは、単に新聞の報道が間違っているのかそれとも、リオ・デ・ジャネイロからベレンまでの航程で何か起きたのかこの機会に調べてみる事にした。
 結果は、新聞記事は間違っていなかった事が判明したのだ。実は、リオへ到着前のもんてびでお丸船内でアカラー移民の一家族中に病人が出て、同船がリオへ入港と同時に市内の病院へと入院していたのだ。
 一家は、病気回復後に入植地へ向かっている。この件は、1929年9月27日付で南拓から外務省通商局へ出している報告書の中に記載されていた。意外な事実で有ったが何でも、調べてみるものである。
 南拓の移民収容所について、これまであまり触れられていないがこの機会に紹介しておこう。
 この建物は、1861年に屠殺場として建設されたものでネオクラシック様式の堂々たる建築物である。1905年に、ベレン郊外のイコアラシーに新しい屠殺場が出来た事からこの場所が閉鎖を余儀なくされ、7年後の1912年に操業をストップし全面閉鎖となった。
 その後、ガス会社や化学薬品の倉庫として使用されていたが1929年に南拓が借り受け、改修工事の末同年9月に移民収容所として模様替えしたものだ。
 この折に、140メートルの長さの桟橋も大改修を行っているが、翌年の1930年12月10日にベレンへ到着した第5回移民小野正氏の自叙伝(アマゾン移民少年の追憶)を読むと、「桟橋の踏み板は隙間だらけで足を取られる人が続出して大騒ぎでした。」と、記載されている。
 大改修後、僅か一年でこの状態とは。先に記した花の島の収容所が「獄舎のようだった」と、回想しているのも当時10歳の少年だったこの小野正氏で有る。
 一行は、ベレンの移民収容所で5日間休息した後、21日南拓の汽船「アントニーナ」でアカラー川を一晩遡行し、22日午前8時30分植民地の桟橋へと辿り着いた。日本を出て実に、60日間の長い旅路であった。
 移民達を神戸からリオまで運んだ「もんてびでお丸」は、日本で最初のディーゼル貨客船「さんとす丸(7267総トン)」と同型の三番船として、1926年に三菱長崎造船所で作られた当時の最新鋭船であった。
 また、リオからベレンまで乗船したスチーム(蒸気)船の「まにら丸(9482総トン)」は、1915年製造の旧型船としてこの後、アフリカ東岸航路に転じている。(つづく)

≪憩の園支援リッファのお願い!!≫ ブラジル稲門会相田名誉会長からのお便りです。

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≪憩の園支援リッファのお願い!!≫ ブラジル稲門会相田名誉会長からのお便りです。

        2019725
 ブラジル稲門会 各位    
                               
世界的な天候異常の煽りでしょうか、厳しい寒さが続いて居りますが、皆さまに於かれましては益々ご健勝の
こととお慶び申し上げます。 
 
扨、今年も恒例の「憩の園」支援のリッファをお願いする時期が参りました。
今年のリッファの特徴はできるだけ低価格で より大多数の方々からのご支援をいただこうという方策で、一枚を
20レアイスとして 50万枚作成し、完売できれば100万レアイスになる予定ですが、その分、理事たちは今まで
以上に販売に力を入れなければならないことになりました。  
 

 抽選日は 1116日の LoteriaFederal で,  賞品は

一等:Honda Fit、 二等:Moto Honda,  三等:Geladeira Duplex 500litros,  四等:TV 40”、 五等:Iphone 6 
 
 リッファのタロン一冊は20枚つずりで 400レアイスです。
 どうか皆様方の例年通りの、心からのご協力とご支援をお願い申し上げる次第です。
 
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 銀行支払いの場合は次の要領でお願いいたします。
   BANCO ITAU : 341    Ag. : 3755

                       cc. :629049

                   Yasuhiro Aida     cpf. : 008 499 798-20

                      お支払の際、できればお名前を記入していただけますようお願いします。

お支払後、私宛にご連絡をお願い致します。
 
お支払いの確認ができ次第、リッファの番号をお知らせいたします。
 
さまのうちの何方かが幸運を掴まれることを願っています。
以上、
 
相田  祐弘            

≪人を探しています≫兄の土井邦雄さん(ドイクニオ、昭和25年7月12日生)の行方を知りたいのです。

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≪人を探しています≫兄の土井邦雄さん(ドイクニオ、昭和25年7月12日生)の行方を知りたいのです。


和田 様
はじめまして、高橋孝子さんの成年後見人をしております司法書士の吉田清郎と申します。


ブラジル長崎県人会から和田様がお詳しいかもしれないとお聞きしてメールさせていただきました。
高橋孝子(タカハシタカコ)さんの兄の土井邦雄さん(ドイクニオ、昭和25年7月12日生)の行方を知りたいのです。
昭和35年ころに長崎県からブラジルへ一家で移住したと聞いております。
父は土井熊雄(ドイクマオ、大正6年3月21日生)、兄弟は土井雄介(ドイユウスケ、昭和23年3月30日生) です。


他に、土井アヤコ(ドイアヤコ、昭和4年8月1日)、土井博子(昭和32年7月3日生)、土井正子(昭和34年6月21日生)土井光生(昭和40年8月3日生)が親族になります。
移住者の名簿にありますでしょうか?
ご存じないでしょうか?
知っている人はいますでしょうか?
もし可能でしたら教えていただけたらと思います。
突然のメールお許しください。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

広島市東区曙5丁目2番12号
高橋孝子


730-0052

広島市中区千田町一丁目14番2号


司法書士・行政書士吉田清郎(よしださやお)
TEL:090-7131-1031 FAX:082-245-1224


Mail:seaside380@yahoo.co.jp
http://yoshidasayao.com


アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(3) ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(3) ニッケイ新聞WEB版より

当時の南拓事務所の広告

 では、なぜ第一回移民達はリオで「もんてびでお丸」から「まにら丸」へ乗り換えたのだろうか。それは、日本から南米への往路コースは次のように決まっていたからだ。
 神戸を出ると、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ダーバン、ポートエリザベス、ケープタウン、リオ・デ・ジャネイロ、サントス、ブエノスアイレス。
 と、言う事で「もんてびでお丸」は、南伯やアルゼンチンへ向かう他の移民達を運ぶためにリオ・デ・ジャネイロ出港後は、サントスへと向かって行ったのだ。
 一方、「まにら丸」は「もんてびでお丸」より一便先に南米向けに出航していた。最終寄港地点であるアルゼンチンのブエノスアイレス港を8月27日に出航、日本帰国への復路を辿っておりサントス経由でリオへと入港した。
 ここで、第一回アマゾン移民達を乗船させベレンへと向かったものだ。「まにら丸」には、ベレン港で降ろす90トンの小麦粉が、ブエノスアイレス港から積み込まれてあった。この「まにら丸」が、日本船としてベレンの港に入った第一号の船となった。
 第一回移民達がベレンで下船したその夜、大阪商船・南拓側では州の要人を同船に招いての晩餐会を催している。
 招待されたのは、エウリコ・デ・フレイタス・ヴァーレ・パラー州統領(日本人移民を招致したディオニジオ・ベンテス州統領の後任者)や州政府要人、海軍、警察、税関、移民局、カトリック教会大司教、マスコミ、領事(英国、フランス、ドイツ、スペイン、米国、ボリビア)等の他、南拓側から福原八郎南拓代表、植木等支店長、コンデ・コマ。大阪商船を代表しマモル・サカオリ氏(サントス代理店代表)が居た。
 同船は、移民達を降ろして翌日さっさと日本へ引き上げて行ったわけでは無かった様だ。日本側は、これからの事もありパラー州側へきっちりと礼儀を尽くしていたのだ。
 また、晩餐会の招待者中、各国領事の顔ぶれを見ると当時、ヨーロッパの多くの国が当地に領事館を開設していた事が良くわかる。
 当時、ベレン、マナウスからイギリスのリバプール港と米国のニューヨークまでは月一回の定期航路が通っていた。ベレンから、アメリカやヨーロッパへ行く日程は、サンパウロまで行くのと同じくらいの日数で有った。
 当時のアマゾン地方は、サンパウロやリオよりもむしろ、ヨーロッパやアメリカと文化や経済とが強く繋がっていた様だ。
 現に、ベレンやマナウスにはオペラ劇場がありヨーロッパから一流の歌劇団が公演に訪れていた。
 また、マナウスには当時、英国系企業の「アマゾン河汽船航行会社」や「アマゾン電信会社」「マナオス電車電燈会社」「マナオス築港営業会社」。ベレンには「パラー工事会社」「パラー電鉄電灯会社」等があった。また、米国系企業の「マデイラ・マモレー鉄道会社」「パラー築港営業会社」も、アマゾン地方に投資していたのだ。
 ところで、第一回アマゾン移民をベレンまで運んだ「まにら丸」のその後であるが、1931年南米航路からアフリカ航路へと回され、戦争開始直前の1941年11月に陸軍に徴用されている。
 そして、1944年11月25日にジャワ海で、米国の潜水艦「MINGO」による魚雷攻撃を受けて沈没している。
 神戸からリオ・デ・ジャネイロまで移民達を乗せたもう一つの船「もんてびでお丸」も戦争で同じ運命を辿っているが、こちらはもっと悲惨な最後で有った。
 同船は、海軍の輸送船として徴用され、1942年6月22日にラバウルを出港し海南島を目指した。
 そして、7月1日ルソン島の北へアドール岬沖で米潜「スタージョン」の魚雷攻撃を受け、発射された2発の魚雷を右舷に受け重油タンクが爆発、船尾から沈んでいった。
 実は、この船の船倉には捕虜1053人(豪軍人845人、民間人172人、その他36人)が乗せられていたのだが、捕虜全員が死亡という痛ましい出来事で有った。(つづく)


アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(4)  ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(4)  ニッケイ新聞WEB版より

まにら丸の偉容

南米拓殖発足
 1928年8月11日、創立総会を開き資本金1千万円の南米拓殖株式会社が設立された。鐘紡が主な出資先で、一般株主の総数は5422人を数え、南拓の取締役(社長)には、鐘紡重役だった福原八郎が就任した。
 南拓の設立目的は、日本の将来の人口増加を見込んでの食糧供給基地の確保で、10か年計画で1万戸(各戸25町歩割当)の植民計画を作っていた。福原八郎は、創立総会を見届けるとすぐに五反田貴巳、新井高次、友田金蔵の3名を伴い、8月23日横浜から船でブラジルへと向かい10月7日にベレン港へ到着した。
 この後、パラー州側との折衝を経て南拓の現地法人「ブラジル農耕日本会社(Compania Nipponica de Plantações do Brasil)を、1929年1月25日に設立している。(登記所への登記は1月10日、15日州官報に公告掲載)。
 南拓ベレンの事務所は、カンポス・サーレス街のマルチンス書籍店の2階に在ったが日本人移民の到着する1929年7月に、ベレンの砲台前広場に面した立派な建物、現在の11 de Janelas美術館の2階に移った。
 この施設は、18世紀の中頃、砂糖工場(エンジェーニョ)主のドミンゴス・ダ・コースタ・バルセラルの邸宅として建設されたものである。1768年には、州の病院(Hospital Real)として1870年まで使用されている。
 その後、建物は様々な用途に使用され1929年、南拓もこの施設内の一角を借り受けていたのだ。因みにその後、陸軍の施設となり2002年から現在の州美術館へと衣替えしている。
 余談になるが、建物がまだ軍の施設だった時代、北伯日系社会の生き字引的な存在であった大嶽一氏(2009年97歳で逝去)の案内で筆者は、そこを一度訪れた事がある。
 「堤さん、南拓の事務所だった所でコンデ・コマさんも働いていた場所知ってますか? 一度、見に行きませんか」と、願ってもない言葉を掛けられ「ぜひ連れて行ってください!」と、即座に返答し案内を乞うた。
 建物の正面に、立哨の兵隊がおり「戦前、この建物内に日本人移民を取り扱う日本の会社が在ったのだが見学させてもらいたい」と、訪問の用件を言ったのだが、「軍の施設に民間人は許可なく入れない」と、けんもほろろの応対で断られてしまった。
 それなら、せめて建物の写真だけでも撮ろうとカメラを向けると「ノンポージ!」と、えらい剣幕で叱責されてしまった。
 こちらもむかっ腹が立ち「なんだ貴方らは、日本人の会社の建物を戦争中に接収しているくせに」と、言い返した。本当は、そうではないのだがどうせ相手は何も分からないだろうと踏んだ訳である。
 兵隊さんは一瞬「え!」と言う顔をして黙りこんだ所へ「それなら、上の人に頼んで許可くらいはもらってきてくれないか」と、こちらも粘って交渉していると、たまたまそこへ通りかかったのが日系の少尉さんであった。
 話をするとこの少尉さんは、アマゾン河の中流地帯パリンチンスへ戦前入植した高拓生の息子で、大嶽さんが彼の父親を知っていたのが判明した。
 と、言う事で話がトントン拍子に進み我々は建物の中を隅々まで案内してもらった思い出がある。今は、美術館になっているので誰でも中に入れるが。
 日本国はこの当時、第一次世界大戦後に始まった不況の余波を受けた上に、1923年の関東大震災、1927年に始まる金融恐慌そして1929年の世界恐慌を経て1930年の昭和恐慌へと暗い時代を歩んでいた。
 また、米国に起こった排日運動は、その後ブラジルにも飛び火し、日本国は経済疲弊の打開策の一つである外国への日本国民送出にも大きな壁を感じていたのだ。
 紙面の都合で今号はこの辺りにしておくが、次号では排日運動の実態、動き始めたアカラー植民地等を記してみたい。(文責・堤剛太)

《ブラジル》警察装い金塊720キロ強奪=空港強盗事件では過去最高額 ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル》警察装い金塊720キロ強奪=空港強盗事件では過去最高額 ニッケイ新聞WEB版より

犯行に使われた偽装の警察車両(25日付メトロ紙電子版の記事の一部)

 サンパウロ大都市圏のグアルーリョス国際空港で25日午後、警官に変装した武装強盗が718・9キロの金塊(1億1020万レアル、30億円相当)を奪って逃走する事件が起きたと、25、26日付現地各紙・サイトが報じた。犯人はまだ逃走中だ。
 強盗団は総勢8人(一部報道では10人)で、重火器で武装した上、連警車両に偽装したナンバープレートのない車2台でグアルーリョス空港に現れた。
 1台は空港内に入らなかったが、もう1台は貨物仕分け現場に現れた。強盗団は連邦警察の制服と覆面を着用していた。

 連邦道路警察によると、強盗団は、空港内の積荷の積み込み、荷降ろしを担当していたブリンクス社の職員1人と親族2人を誘拐し、積み込みオペレーションの機密情報を手に入れていた。 

強盗団は現場の職員の一部を銃で脅し、金塊入りのトランクの運搬を手伝わせた。重すぎて持ち上げられない荷物の運搬にはフォークリフトも使用した。乗ってきた車に手早く金塊を積み込ませた強盗団は、人質を確保したまま逃亡した。
 逃亡後、犯行に使われた車は2台とも、サンパウロ市東部ジャルジン・パンタナル地区に乗り捨てられた。強盗団はここで、小型トラックと救急車に乗り換えて姿を消した。車を乗り換えた際、人質も解放された。
 奪われた金塊は、一部がカナダのトロント、一部は米国ニューヨークに運ばれる予定だった。
 捜査には、サンパウロ州市警の組織犯罪捜査課(Deic)が当たっている。警察は、乗り捨てられた2台の車両を鑑定し、指紋も採取した。
 また、空港運営会社のGRUエアポート社は、今回の事件により、旅客機の離着陸に支障は出なかったことと、犯人たちとの間に銃撃戦も発生せず、怪我人も出なかったことを明らかにした。
 警察は、事件は、昨年3月4日にサンパウロ州カンピーナス市のヴィラ・コッポス空港で発生した、現金500万ドル強盗事件と手口が似ているとして同一犯ではないかと調べを進めている。


サンパウロ大都市圏=金塊強奪事件の容疑者逮捕=人質と偽った職員含む3人 ニッケイ新聞WEB版より

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サンパウロ大都市圏=金塊強奪事件の容疑者逮捕=人質と偽った職員含む3人 ニッケイ新聞WEB版より

犯行後に乗り捨てられた連警車両に似せた車の一つ(Divulgação/Polícia)

 【既報関連】サンパウロ大都市圏グアルーリョス市のクンビッカ国際空港で25日に起きた約720キロの金塊強奪事件で、27~29日に容疑者3人が逮捕されたと29日付現地紙、サイトが報じた。
 最初の逮捕者は、人質にされたと言っていた空港職員のペテルソン・パトリシオ容疑者(33)だ。同容疑者は事件の当日、現場に乗り込んだ車から真っ先に降りた人物で、7年前から貨物ターミナルで荷物を捌く作業を担当していた。同容疑者は27日に事情聴取に応じ、誘拐された経緯や強盗団と辿ったルートなどを問われたりしている内に神経質になり始め、自分も関与していたと自供した。
 もう1人は、ペテルソン・ブラジルと呼ばれる男で、警察はこの男が知人のパトリシオ容疑者を誘ったと見ている。
 また、28日には、偽装した警察車両が乗り捨てられていた駐車場の関係者2人が事情聴取を受け、内1人が29日未明に逮捕された。
 29日未明に逮捕されたセリオ・ジアス容疑者は、犯人達が所持していた火器の一つに使われていたと思われる機関銃の充填機を持っていた。同容疑者は、犯人達が空港から運んできた金塊を別の車に乗せ換えて逃亡する際の車の手配などを手伝ったと見られている。
 警察は、事件当時の犯人達の動き方から、空港内、それも通常の職員は入れない地区での貨物の動きなどを知っている人物が関与していたと確信し、捜査を進めていた。
 1億1千万レアル相当の金塊の行方や残りの強盗団に関する捜査は、今後も継続して行われる。

浜松市長=「五輪で交流深めたい」=伯国代表団の合宿打ち合わせ=県人会会員とも懇談会 ニッケイ新聞WEB版より

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浜松市長=「五輪で交流深めたい」=伯国代表団の合宿打ち合わせ=県人会会員とも懇談会 ニッケイ新聞WEB版より

鈴木市長、県人会会員ら
 静岡県浜松市の鈴木康友市長と市職員ら4人が20日に来伯した。浜松市は来年の東京五輪・パラリンピックで、伯国選手団の事前合宿受け入れ地となっている関係で、鈴木市長らはブラジル五輪委員会などと選手受け入れの協定締結のため訪伯した。その後、聖市の静岡県人会を24日に訪問して会員との懇親会を行った際に取材した。
県人会会館を見学する鈴木市長
 東京五輪・パラリンピックの伯国選手団事前合宿受け入れ地に浜松市が選ばれたことについて、鈴木市長は「一過性の盛り上がりに済ませず、その後も日伯の交流を深めていきたい」との抱負をのべた。
 原永門県人会会長は「必要な時は県人会を遠慮せず使ってほしい。この訪問を機に連携をより密にできれば」と申し出た。
 同市長は「全国では労働環境や、習慣の違いによる近所とのトラブル、子供の教育など、外国人との共生に関する課題があり、その解決に重点を置いている。浜松では外国人の多様性や能力を活かし、課題解決だけでなく街の発展につなげている」と多文化共生の取り組みの進捗を説明した。
 浜松市には、自動車産業が盛んなことから多くの外国人が働きに来ている。市町村別で全国最多、約9200人(2018年度)の伯人が生活し、日本語教室や外国人学習支援センターの設置、小学校への支援員派遣も進められ、全国でも多文化共生の進んだ町として知られている。
 来年の東京五輪で浜松市は、ゴルフ、柔道、新体操、卓球、ボート、野球、ラグビーの7競技、パラリンピックは全競技の伯国選手団を受け入れる予定。特にパラリンピックでは、練習会場の準備や選手のサポートを行うボランティアを現在募集中で、すでに約1500人が集まった。
鈴木市長、県人会会員らの懇談の様子
 浜松市からは寺田聖子市民部文化振興担当部長、山口貴弘市民部スポーツ振興課副主幹、石川エツオ・ブラジルタウンホストアドバイザーも列席。当地側は川崎エレナ副会長、ブラジル健康体操協会の川添敏江会長ら11人が参加した。
 静岡市出身の川添さんは同協会の会員数を約1400人と紹介。市長は「大盛況ですね」と感心した様子。同協会の本部は浜松市にある。川崎副会長や山内みどりさんら4人の元県費留学生や研修生は「現在、婦人部創設を目指している」と流暢な日本語で説明した。

□関連コラム□ 大耳小耳
 静岡県人会は一昨年に創立60周年を迎え、原会長は約10年ぶりの県費留学生制度再開を川勝平太知事に直訴。昨年、再び日本へ留学生が送り出されることとなった。募集の際には、採用1人に対し約40人の応募があったとか。その中にはデカセギ子弟で、浜松市に生まれながら、現在伯国の大学で学ぶ人も。静岡県人会で行われた鈴木市長らとの懇親会で、川崎副会長は「かつての留学生の多くは日本移民の子弟だったが、今変化が起きている」と率直な感想を述べた。日伯交流を担う人材にも新しい波が来ているようだ。

《パン・アメリカン》大会序盤、好調のブラジル勢=テコンドーで七つのメダル ニッケイ新聞WEB版より

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《パン・アメリカン》大会序盤、好調のブラジル勢=テコンドーで七つのメダル ニッケイ新聞WEB版より

ブラジルに初の女子テコンドー、パンアメリカンでの金メダルをもたらした、ミレーナ・チトネッリ(Abelardo Mendes Jr./rededoesporte.gov.br)

 ペルーのリマで26日に開幕した、南北アメリカ、カリブ海諸国が参加する総合スポーツ大会、
パン・アメリカン競技大会5日目、30日の途中までで、ブラジルは金メダル8個、銀メダル6個、銅メダル13個、合計27個のメダルを獲得したと、27~30日付ブラジル国内紙・サイトが報じている。
 ブラジルは49種目に485人が参加しており、最初のメダル獲得者は、27日に行われた女子トライアスロンのルイーザ・バチスタとヴィットリア・ロペスだった。ルイーザが金メダル、ヴィットリアは銀メダルだった。
 29日にはテコンドー女子67キロ以下級で、ミレーナ・チトネッリが金メダルを獲得し、ブラジル人初となる、テコンドー女子パン・アメリカン優勝を達成した。ブラジルはテコンドーの男女別、階級別で、金2、銀2、銅3と、七つのメダルを獲得した。
 パン・アメリカンには、五輪では行われない競技も存在する。その中の一つ、フィギュア・ローラースケートでは、27日にブルーナ・ヴルツが金メダルを獲得した。
 2016年のリオ五輪でもブラジル選手団の顔として活躍したカヌーのイザキアス・ケイロスも、1千メートルC1クラスで金メダルを獲得。これで前回2015年のトロント大会と合わせて、自身4個目の汎米大会でのメダルだ。
 トライアスロンは男女混合リレーでも金メダルを獲得。ルイーザ・バチスタとヴィットリア・ロペスは各々、2個目のメダルを獲得した。男子の出場選手はマノエル・メシアスとカウエ・ウィリーだった。
 体操女子は27日に団体戦で銅メダル、29日にはフラヴィアが個人総合で銅メダルを獲得。男子体操は28日に団体戦で金メダルを獲得。29日には個人総合でカイオ・ソウザとアルトゥール・ノリがワンツーフィニッシュを決め、ソウザが金メダル、ノリが銀メダルを獲得した。
 8月10日まで続く大会は今後、中盤、後半戦に入っていく。メダル獲得レースで米国に次ぐ順位を狙うブラジルは現在3位。今後も、陸上、水泳、柔道などでのメダル獲得が期待される。

《パンアメリカン》=ブラジルは体操でメダルラッシュ=女子ハンド、金で東京行き確定 ニッケイ新聞WEB版より

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《パンアメリカン》=ブラジルは体操でメダルラッシュ=女子ハンド、金で東京行き確定 ニッケイ新聞WEB版より

金メダルを獲得して喜ぶブラジル女子ハンドボール代表(Abelardo Mendes Jr./rededoesporte.gov.br)

 ペルーのリマで7月26日から行われている、南北アメリカ、カリブ海諸国限定参加の〃ミニ五輪〃、パン・アメリカン競技大会7日目の1日昼までで、ブラジルは金メダル12個、銀メダル10個、銅メダル1個の計40個のメダルを獲得したと、7月31日、8月1日付現地各紙・サイトが報じた。
 大会前半、ブラジルチームを牽引したのは男女の体操だ。ブラジルは男子が団体で金、個人総合で金と銀、鉄棒で金と銀、平行棒で銀、あん馬で金、つり輪で銀を獲得。女子は団体で銅、個人総合で銅、床で銅と、金4、銀4、銅3の合計11個のメダル獲得となった。
 また、7月30日には女子ハンドボールが決勝でアルゼンチンを破り、6大会連続で優勝。東京五輪出場権を獲得した。
 同じく30日には、重量挙げ男子の最重量級である109キロ超級で、フェルナンド・レジスがパン・アメリカン3連覇を果たした。ボーリング男子個人でも、マルセロ・スワルツが3大会連続のメダル獲得となる銀メダルを獲得した。スワルツは11年グアダラハラ大会(メキシコ)で銅、15年トロント大会(カナダ)では金だった。
 また、今大会は平均年齢22・2歳と若い選手を送り込んだボクシングチームは、7月31日までの段階で銅メダル2個を確定させ、決勝進出者が4人も出ている。決勝進出者は勝てば金メダル、負けても銀メダル獲得だ。男女階級別の決勝は1、2日にかけて行われる。

JHで平和週間10、11日=広島や長崎の被爆体験や文化発表 ニッケイ新聞WEB版より

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JHで平和週間10、11日=広島や長崎の被爆体験や文化発表 ニッケイ新聞WEB版より

来社した一行
 ブラジル広島文化センター(吉広ロベルト貞夫会長)、ブラジル長崎県人会(川添博会長)は、「平和週間」と題し、原爆写真展や原爆に関する講演、上映会などを10、11両日、聖市のジャパン・ハウス(Avenida Paulista, 52, Bela Vista 以下JH)で行う。入場無料。
 10日は午後1時から8時まで、11日は午前10時から午後6時まで様々なプログラムが行われる。写真展は2日間終日開催。
 10日午後2時50分からは、被爆者平和協会の被爆体験者らによる被爆証言が行われる。他にも、長崎市と姉妹都市提携を結ぶ聖州サントス市が平和への取り組みを発表したり、紙芝居の上演、両県・市の知事・市長によるメッセージも発表される。
 11日には長崎県の郷土芸能の龍踊りや、盆踊り、郡上踊りなどの日本全国の伝統芸能に加え、健康体操も披露される。
 会場では、被爆者協会が核兵器廃絶の署名も呼びかける。署名は現在世界中で集められており、最終的に国連に届けられることになっている。
 川添さんは「伯人や若者、原爆を知らない人にも来てほしい。原爆を知ること、忘れないことが重要。皆が忘れたらまた悲劇が繰り返されてしまう。多くの方に来てもらい、平和について考えてほしい」と来場を呼びかけた。
 イベントに関する問い合わせは、ポ語であれば広島県人会(電話=11・3207・5476)、日本語は長崎県人会(電話=11・3203・0949)まで。

《ブラジル》新しい医師派遣計画を発表=「メジコス・ペロ・ブラジル」=当面はマイス・メジコスも並存 ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル》新しい医師派遣計画を発表=「メジコス・ペロ・ブラジル」=当面はマイス・メジコスも並存 ニッケイ新聞WEB版より

新しい医師派遣計画について発表する式典で(左から2番目がマンデッタ保健相、3番目がボウソナロ大統領、Marcos Corrêa/Presidência da República)

 ボウソナロ大統領とルイス・エンリケ・マンデッタ保健相が1日、マイス・メジコスに代わる新医師派遣計画「メジコス・ペロ・ブラジル(MPB)」に関する暫定令(MP)を発表したと1、2日付現地紙、サイトが報じた。
 ジウマ政権が13年に導入したマイス・メジコスは、医師や医療機関へのアクセスが困難な地区や地域に医師を派遣する計画だ。同計画により、先住民保護区などの遠隔地、人口の少ない市、都市の周縁部など、一般の医師が行きたがらない場所に医師が派遣されていた。

 マイス・メジコスは、医学部卒業生達が、利便性、安全性、給与、研究を継続出来るなどの理由で、都市部に偏る傾向を解消する事も念頭に置いていたが、遠隔地などを希望するブラジル人医師は少なく、キューバ人医師が穴を埋める例が多かった。
 だが、昨年の大統領選中、ボウソナロ氏が、国外で取得した医師免許を国内基準で再評価する試験に合格していない医師の参加を認めず、キューバ人医師追放と言い出したため、キューバが協約破棄を宣言。同国人医師の大半が帰国した。
 これにより、医師不在となった地区や地域は多く、新たな医師の募集が行われたが、欠員はなかなか埋まらず、ブラジル国内に留まったキューバ人医師の再登用も検討された。
 だが、1日に発表されたMPBでは、参加資格を、ブラジルで免許を取得した医師か、国外で取得した免許の再評価を受け、国内で活動する資格を得た医師に限定しており、国内に残ったキューバ人医師は対象外となる。ただし、7月29日には、マイス・メジコスに参加していた同国医師に居住権を認める法務省令が出ている。
 MPBでは、医師不足が深刻で、基本的な医療サービスへのアクセスが困難な北部や北東部を中心に1万8千人を派遣する意向で、議会による暫定令承認と大統領による裁可後に採用試験を行う。合格者には、家庭医療や地域医療の専門講座受講や、講座内容に沿った論文や派遣地域の医療に関するレポートの提出、定期的に評価を受ける事などが義務付けられる。
 MPB参加医は正規雇用扱いとなるが、給与は派遣場所などによって異なり、初任給は1万2千~2万1千レアル。3年毎の評定次第で3万1千レアルまで昇給する可能性がある。週毎の勤務時間は、診察・診療に40時間、理論などの学習に20時間の計60時間が義務付けられる。
 7月31日には、MPBに関する暫定令の承認・裁可までの間の医療活動停滞を避けるため、マイス・メジコス参加医との契約が3年間更新された。マイス・メジコス参加医もMPBに移れるが、そのためには試験を受けなければならない。

《ブラジル》OAB会長の父らの遺体焼却=証言中に脅迫受けたと元警部 ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル》OAB会長の父らの遺体焼却=証言中に脅迫受けたと元警部 ニッケイ新聞WEB版より

遺体焼却の現場で証言するゲーラ氏(Comissão Nacional da Verdade/Divulgação)
 【既報関連】連邦検察庁が1日、ブラジル弁護士会(OAB)のフェリッペ・サンタクルース会長の父親のフェルナンド・アウグスト・サンタクルース・オリヴェイラ氏ら、12人の遺体を焼却したと証言した人物が、供述中に脅迫を受けていた事を明らかにしたと1日付現地地サイトが報じた。

 オリヴェイラ氏は1974年2月に陸軍秘密警察に捕まり、拷問死したとされ、軍政中の政治犯の死亡・失踪に関する調査特別委員会が7月24日に死亡証明書も発行している。これに対し、ボウソナロ大統領は7月29日、「オリヴェイラ氏は反体制派が粛清した」と語るビデオを流した。
 だが、7月31日に連邦検察庁が、オリヴェイラ氏を含む12人の遺体を製糖工場の窯で焼却したとの証言を含む捜査報告書を提出した。
 証言者は陸軍秘密警察元警部のクラウジオ・ゲーラ氏(79)で、1973~75年にリオ州北部カンポス・ドス・ゴイタカゼスのカンバイバ精製所で、オリヴェイラ氏ら12人の遺体を焼却したという。
 ゲーラ氏は現在、福音派の牧師で、宗教的な促しもあり、真実を明かす決心をした。だが、供述を行う際に脅迫を受け、司法当局に保護を申し入れたが、受理されなかったという。
 だが、脅迫によって同氏の供述の内容が変わる事はなく、検察は7月31日に刑事犯罪捜査に基づく報告書と起訴状を裁判所に提出した。
 ゲーラ氏は真相究明委員会やエスピリトサント州の検察でも供述を行っており、その内容は『汚い戦争の記憶』という書物に収められている。同に関する捜査は8年前に始まっており、20人の証言などをまとめた報告書は7月26日に完成したばかりだという。

令和元年7月の歩きの記録。

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令和元年7月の歩きの記録。

1日2万歩を目標にしていた年初の目標を半減、1日1万歩に目標を音明日事により気が楽になり機嫌よく歩けるようになったが、体重が増えず62キロ前後で風邪をひいたり、咳が出たり雨が多くて歩けない日が出たりしていますが、7月は、1日平均14545歩で1万歩以下が3日、2万歩以上が4日、1万歩から2万歩が24日のまあまあの成績でした。年間歩行数は、357万4482歩で1日平均歩数は、1万6千歩台に落ちて来ています。
2013年の記録開始後の総歩行数は、4382万歩に達しており
令和元年2ヶ月合計歩数は、138万歩になっています。
一応、4000万歩は、昨年12月に達成して居り現在、4382万歩に達しています。新しい目標を5500万歩に引き上げ歩き続けて行く事にしています。2011年末には、達成予定です。
実績記録の写真と地元ポルトアレグレに咲く寒緋桜の花を貼り付けて置きます。

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娘に変装しての脱獄に失敗=移された独房で遺体で発見 ニッケイ新聞WEB版より

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娘に変装しての脱獄に失敗=移された独房で遺体で発見 ニッケイ新聞WEB版より

変装に使ったシリコン・マスクやかつらとメガネ、右下の写真がバイシーニョ(Montagem sobre foto de Divulgação/Seap)

 自分の娘に変装して脱獄を試みたことで国際的に話題となった脱獄未遂犯が、独房に移された後に、遺体となって発見される事件が発生した。
 件の脱走未遂犯は、クラウヴィーノ・ダ・シウヴァ受刑囚(42)で、「バイシーニョ(チビの意)」という通称を持っていた。麻薬密売の罪で73年10カ月の判決を受け、リオ市西部のジェリシノー複合刑務所のバングー3と呼ばれる棟で服役中だったバイシーニョは3日、面会に訪れた19歳の娘になりかわり、女装して脱獄しようとした。
 バイシーニョは、シリコン・マスクを使って顔がわからないようにした上に、女性用の衣服とロングヘアのかつら、メガネを使って変装した後、娘の身分証明書や訪問者証まで持って、脱獄を試みた。これは、「チビ」の通称通り、体型の小ささを生かした脱獄作戦だったが、刑務所を出ようとしたところで、態度を怪しんだ職員が呼び止め、脱獄を阻止した。
 バイシーニョを別室に連れて行った職員は、メガネとかつらをはぎとった後に、自分で服を脱ぐよう指示。バイシーニョが上着やシャツを脱ぎ、毛のないシリコン・マスクも外して素顔を見せるまでの映像は、ブラジル国内のみならず、世界中で流れ、4日、5日には国際的なニュースにまで発展した。
 刑務所職員はバイシーニョと娘、7人の訪問者を警察に連行。訪問者の中には妊婦もおり、刑務所に入る時も身体検査が免除される妊婦が、メガネやかつら、シリコン・マスクを持ち込むのを手伝ったと見られている。
 バイシーニョはその後、警備がより厳重なバングー1に移されたが、6日朝、死亡しているのが見つかった。バングー1は全て独房であることから、シーツを使って自殺を遂げたものと見られている。(3、6日付G1サイトなどより)

岸本昴一の親戚が日本から=当地親族、新潟県人会長と交流  ニッケイ新聞WEB版より

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岸本昴一の親戚が日本から=当地親族、新潟県人会長と交流  ニッケイ新聞WEB版より

左から岸本節子さん、介護人と耐子さん、智也さん

 「岸本昴一さんの写真は今も実家に飾られています。祖母から昴一さんのことは度々聞かされてきました。ご縁があって、地球の反対側に住む親戚の方々にお会いできて本当にうれしいです」―新潟県新発田市に住む映像エンジニアの岸本智也さん(38)は、ブラジル新潟県人会第3代会長だった岸本昴一さんの実弟の曾孫にあたる。
 長男だった昴一さんがブラジルに移住したため、弟が10代目として実家を継ぎ、そこから数えて3代目の家長が智也さんだ。
 7日午前、聖市のジャパン・ハウスで岸本昴一さんの末娘の耐子さん(たいこ、79、二世)と、次男の妻・節子さん(78、二世)と待ち合わせ歓談した。耐子さんは39年前、訪日していた時、智也さんの両親の結婚式に出席していた。「父が卒業した新発田農業高校を見に行ったりした。懐かしいわ」と耐子さん。その翌年に智也さんが生まれ、その後も3度ほど、新発田から親戚が来伯訪問したという。ただし、智也さん自身がブラジルの親戚に面会するのは今回が初めて。
 岸本昴一さんの件は、本紙でも連載《終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ》(https://bit.ly/2GXyGyF)として詳しく報じた。あの筆名・岸本丘陽だ。
 1932年に聖市ピニェイロス区に暁星学園を設立。日本語教育だけでなく、勤労部や裁縫部も兼ね備え、勤労精神を養うことで社会に貢献できる人材を育成するなど、日系社会の子弟教育に大きな貢献をしてきた。
 日系最大の教育施設「コレジオ・ファクルダーデ・ブラジリア」の創立者・坂本久場綾子さん、70年代に「ラミー王」と言われた故市村之さんの三男の順二さんや四男・勝彦さん、大学教授、政治家ら多彩な人材が巣立っていった。その同窓会は現在でも続けられている。
 岸本昴一さんは雑誌『曠野の星』を創刊し、自ら取材活動を行い105号まで発刊。10冊前後の著書もあり、ジャーナリスト、言論人としても活躍した人物だ。
 智也さんはエンジニアとしてジャパン・ハウスの展示設営をしに初来伯。仕事が一段落したところで、会うことになった。今後、情報交換ができるように、3人はお互いの携帯電話の番号を交換していた。
 智也さんは「いつか新発田で岸本昴一さんの活動を紹介するような企画もやってみたい」との抱負を語った。その後、新潟県人会の駒形秀雄会長と昼食を共にし、故郷談議に花を咲かせ、同県人会館の入り口に飾られている歴代会長の顔写真額にある岸本昴一さんを見に、東洋街へ向かった。

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