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【ブラジル】南米─欧州の自由貿易協定 いよいよ締結 サンパウロ新聞WEB版より

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【ブラジル】南米─欧州の自由貿易協定 いよいよ締結 サンパウロ新聞WEB版より

6/29(土) 10:06配信

 ブラジルとアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ベネズエラを正式加盟国(ベネズエラは現在資格停止中)とするメルコスール(南米南部共同市場)と欧州連合(EU)は28日、両者間の自由貿易協定締結に向けた交渉を終了させた。ブラジル政府の複数の情報筋の話として伝えた同日付伯メディアによると、メルコスールとEUの自由貿易協定締結は間もなく、公式に発表される。
 財物やサービス、投資、政府調達を包含する自由貿易協定は、メルコスールとEUの間で20年間にわたって議論されてきた。そして先週、専門家らによる交渉の最終ラウンドが始まり、交渉の進展を受けてメルコスールとEU双方の閣僚が招集され、ベルギー・ブリュッセルでの会合は27日に閉じられた。
 伯メディアは、メルコスールとEUの合意は画期的な出来事であり、EUによって署名された自由貿易協定としては日本との間で結ばれたものに次いで2番目に大きなものだと伝えている。
 この協定によって両者間ではほとんどの製品を無関税で取り引きすることが可能になるが、そうなるまでにはまだ一定の時間がかかる。EU側はより早い段階で関税を撤廃するが、一部の農業製品については無関税輸入の割当枠を維持するものとみられる。また、メルコスール側が大部分の取り引きを無関税化するにはこれからさらに10年かかる可能性がある。
サンパウロ新聞

花談議474 ≪アパレシーダドノルチのパイネイラスの実≫ 吉田さんからのお便りです。

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花談議474 ≪アパレシーダドノルチのパイネイラスの実≫ 吉田さんからのお便りです。

和田さん

天気が良かったので水曜日にアパレシーダノルチに行って来ました。ケーブルカーやエレベーターで山の上まで行きました。聖体を見たり景色を楽しみました。道には沢山のパイネイラスの実がぶら下がっていました。

吉田


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ZENKYUさん、今年も歌う=ポルト・アレグレ日本祭りで ニッケイ新聞WEB版より

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ZENKYUさん、今年も歌う=ポルト・アレグレ日本祭りで ニッケイ新聞WEB版より

歌唱を披露するZENKYUさん


 日本のアマチュア歌手・ZENKYUさん(本名=小川善久、54、和歌山県)は17、18日に南大河州都ポルト・アレグレ市で開催される「第8回日本祭り」に今年も出演する。
 出演は17日が午後1時10分頃、18日が午後2時10分頃の予定。
 ブラジル日本移民110周年を記念した楽曲『百と十年の轍』、ポ語で歌う『Sorrindo(微笑む君)』、さらにアマゾン日本人移住90周年を記念して書き上げた新曲『この地に舞い降りたのは』の3曲を披露する。
 会場では披露する3曲と、亡き母親を思い作った楽曲『おかはん』が収録されたCDも現地で配布する。
 ZENKYUさんの楽曲は、動画共有サービスYouTubeに開設されているチャンネル(
https://www.youtube.com/channel/UC_UFIf6yxP56oT9FkAPMriw)でも聴くことができる。

パンアメリカン大会閉幕=ブラジルの金メダル史上最高=東京五輪へ力強い弾み ニッケイ新聞WEB版より

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パンアメリカン大会閉幕=ブラジルの金メダル史上最高=東京五輪へ力強い弾み ニッケイ新聞WEB版より

金メダルと共に笑みを浮かべる女子柔道のラファエラ・シウヴァ(Pedro Ramos/rededoesporte.gov.br)

 【既報関連】7月26日から11日までペルーのリマで開催された、南北アメリカと中米カリブ海諸国限定参加の〃ミニ五輪〃、パン・アメリカン競技大会で、ブラジル選手団は金55個、銀45個、銅71個と、総計171個のメダルを獲得し、メダル獲得ランキングで米国に次ぐ2位で大会を終えた。10~12日付ブラジル各紙・サイトが報じている。
 大会後半のメダルラッシュの立役者となったのは、陸上、水泳、柔道だった。水泳は36種目で30個、 陸上は48種目で16個、柔道は男女合計14階級中10階級でメダルを獲得した。
 柔道では男子60キロ以下級、81キロ以下級、女子52キロ以下級、57キロ以下級、78キロ以下級で金メダルを獲得した。
 2016年のリオ五輪で金メダルを獲得し、国民的スターになったが、その後不調が続いていたラファエラ・シウヴァは、女子57キロ以下級で金メダルを獲得し、復活を印象付けた。シウヴァは閉会式で、ブラジル選手団の旗手も務めた。
 陸上では、男子砲丸投げ、400mハードル、1万m、3千m障害、400mリレーで、女子400mリレーで金メダルを獲得した。
 水泳では、男子50m自由形、100m自由形、200m自由形の、1500m自由形、100m平泳ぎ、200mバタフライ、自由形リレー4x100、4x200でそれぞれ金を、女子でも50m自由形、ウォーターマラソン10キロで金、男女混合4x100リレーでも金メダルに輝いた。
 今大会のメダル総計171、金メダル55は共に、ブラジルにとっては大会史上最高記録で、地元開催だった2007年リオ大会の成績も上回った。
 ブラジル五輪委(COB)ディレクターのジョルジ・ビシャラ氏は、「大会前に立てた目標を達成することが出来、とても満足している」と語っている。今大会は多くの種目が来年の東京五輪出場権予選も兼ねており、大会を通じて9種目、29人の選手が東京五輪出場権を獲得した。
 また、8月23日から9月1日までは、障がい者スポーツの大会、パラパンアメリカンもリマで開かれる。

花談議475 ≪取り敢えず元気に過ごしております≫古谷さんからのお便りです。 

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花談議475 ≪取り敢えず元気に過ごしております≫古谷さんからのお便りです。

しゅくこさ~ん
           古谷です


大変長らくご無沙汰しました。

貴信はいつも拝読しており、お元気そうで何よりです。が、今年の日本の夏は異常な酷暑の由。冷菓の食べ過ぎでお腹などこわされない様祈っています。

子供の大学の通学上の理由で、昨年03月に町はずれにあります今のアパートに引っ越してきました。以前に申しました様に、四戸X27X11棟の大マンモス団地に移り、早やいもので、約一年半が経ちました。


ブラジル人は人種の坩堝です。胸幅・厚みも日本人より大きいのですが、特にオシリがでかい。特大の尻デカの女性を指さし、トレーナーに「あの人のパンテイは市販では無いよナ」と言ったら、睨まれました。

引っ越した翌月に、14年間飼いました犬のジョンを亡くし、余った時間をジム通いに費やしています。04月より、月‐金,週五日の一時間、若い女性のトレーナーに搾られて、ヒーヒー悲鳴をあげています。上・下肢に筋肉が付いたのは良いのですが、歩幅が小さくなったのを改めようとして、ジム通いを始めたのです。しかし、結果は逆効果。筋肉が邪魔して広がりません。トレーナーに相談して、一日だけストレッチをやる事にし、先週より始めました。元々、固い体質に加え、筋トレで余計にニクが固くなっており、初日より、フーフー言ってます。


団地の敷地面積は五千平米で、敷地は斜面になっていて、11棟は四層の平面に分かれて建てられ、三台のエレベーターで繋がっています(四戸・弐戸・弐戸・三戸)。日中、殆ど家に居ずっぱりのジョンが可哀そうなので、一日二回の散歩だけは、自由に歩かせました。私が一人で歩けば、20分で歩ける距離をジョンは、オシッコ・ウンチ・喧嘩に忙しいので、一時間は掛かりました。要はストレスの発散でした。

ジョンが死んで五か月が経ち、漸く胸の痛みは薄れましたが、未だ一人で歩いていると見知らぬ人から「あラ、犬は?」とよく聞かれます。団地では、十数匹の犬を見かけましたが、ジョンの犬種(Shetland Sheepdog)はジョンだけだったのでしょう。目だったのだと思います。家の中では、おとなしく、床を汚さず従順な犬でしたが、一旦外に出ると、喧嘩早い猛犬でした。他の犬はジョンを見かけるとコソコソ隠れる程で、。珍しい犬種と喧嘩好きが有名にさせたのでしょう。ジムの窓から、ジョンの散歩道が見えますが、コソコソ隠れた犬は、今は胸を張って堂々と歩いています。


女房に「又、犬を飼おう」と言ったら拒否されました。犬の寿命は平均15年、私の余命はそれほど長くないと言うエゲツナイ理由ですが、裏には、あんな辛い・悲しい飼い犬の死に目を二度と味わいたくないと言う本音を垣間見ました。

今や、我が家の主役は、生後六か月になった子猫のジョイです。腕白盛りなのでしょうか、家じゅう飛び回っています。ベランダに放し飼いにしている四歳のウサギに馬乗りになって、よく長い耳を噛んでいます。私が大声で、「こらッ!」と大声で怒鳴ると、吃驚して飛び離れますが、目を離すと次の瞬間、又馬乗りになっています。犬と違って猫にはジャンプ力があります。


平気で食卓に登りますので、女房や息子は嫌がって、床に降ろしますが、次の瞬間には又テーブルの上にいます。私はジョイが皿に顔を寄せても平気です。

犬と違って、料理を舐めません。匂いを嗅ぐだけです。鮭の極々ちさな切れ端を掌に乗せると、旨そうに食べます。その時ばかりは、腕白の「ワ」の字もありません。


息子が熱帯魚に興味を示し、熱帯魚六匹を飼っている50Lの水槽のpHと亜硝酸の酸度を計測して呉れています。少し専門的になって恐縮乍ら、水槽の水は放って置くと、餌の食べ残し熱帯魚の糞・尿で、アンモニアが充満する様になり、熱帯魚には有害になります。日本の九州のメーカーが開発したEBBEco-Bio Block)と称する人工石を私が当地で売っていますが、これは礫・砂利で出来た人工石の中に納豆菌を練り込めた石で、水槽の中に入れますと、菌が半時間毎に倍増し、アンモニアを分解する機能を持っています。アンモニアが分解されると亜硝酸になり、更に分解が進むと、硝酸に転化し、水槽の植物に吸収されるか、蒸発して無くなります。この分解作用が、水槽の水を壱年も清潔に保ち、水換えの手間を省く理由です。


平素のご無沙汰お詫び旁の近況報告とは申せ、文章が長くなり過ぎました。

申し訳ありません。兎に角、年にもめげず、難解な葡萄牙語にもめげず、日々元気に過ごしておりますので、ご安心下さい。 以上。 


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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(5) ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(5) ニッケイ新聞WEB版より

田付七太大使(『世界の宝庫アマゾン』藤井卓治著、サンパウロ新聞、1955年)

 アマゾン地方への玄関口と呼ばれる、100万都市パラー州べレン市。アンデス山脈中に端を発するアマゾン河は、東へ一路6500キロの長い行程を経てべレンの北端を通過し、やがて大西洋の河口へとたどり着く。このアマゾン河流域だけでも700万平方キロメートルと、ブラジル国土の56%の面積を占めているのだ。
 この広大なアマゾン地域へ、戦前から戦後にかけて日本からの農業移民が陸続と送り込まれてきた。その数は、1929年の第1回移民から数えて戦前移民が2680名。1953年から始まった戦後移民は6907名の合計9587人となっている。
 従って、本年度(2019年)アマゾン地域日系社会では「アマゾン日本人移民90周年」の記念すべき年を迎えた。
 ブラジルの作家アルベルト・ランジェル(1871年~ 1945年)が、1908年に著したアマゾンを舞台とする短編集の中で、このアマゾン地帯を「緑の地獄(Inferno Verde)」と表現している。90年前のアマゾンと言えば、まさにアルベルトの言う「緑の地獄」そのものであっただろう。それほど辺境の地アマゾンへ当時、どういった事情から日本人移民が送り込まれてきたのだろうか?

▼日本国大使館を訪れた次期州知事

 アマゾンに日本人移民が導入される、その5年前(1924年)の出来事であった。
 当時、リオ・デ・ジャネイロ州のペトロポリスに在った日本国大使館を一人の人物が訪れ、田付七太大使に面会を求めた。ジオニジオ・アウジエル・ベンテスと名乗ったこの紳士こそ、後に「アマゾン日本人移民の恩人」となる人であった。
 ジオニジオ・ベンテスは、翌年2月1日よりパラー州の州統領としての任務に就く要人であり、これを丁重に迎え入れた田付七太大使はオランダ駐在公使を経てブラジル国での初の日本国大使として、1年前(1923年)の8月16日にリオへ着任していた。
 当時、20万人の人口を持つアマゾン地方の雄都パラー州の時期州統領は田付大使に対し、こんな話を切り出した。
 「パラー州は、アマゾン河流域の広大な面積を持ち、しかも肥沃な土地である。しかし、人口が極めて少なく労働力もなく、開発が大変遅れている。ついては、是非日本人の移民を送ってもらい、パラー州の開発に力を貸して頂きたい。農耕用の土地は、好きなところを幾らでも州側で約束したい」。
 この話を受けた田付大使は、すぐに本省へアマゾン日本人移民の要請話しをつないだ。と、言うのは田付大使がブラジルへ着任した同じ年(1923年)の10月に、排日を目的とした「レイス法案」という移民制限法案が連邦下院へ提出されていたからである。
 田付大使は、ブラジルへの日本人移民を制限するこの法案の提出に憂慮していた。時を同じくして日本人移民を受け入れていた米国でも、移民を制限する動きが見られ1924年には排日法案が米国議会を通過している。
 国内不況、人口過剰、特に農村の窮乏があり移民を奨励していた日本国政府としては、移民受け入れ大国の米国やブラジルが、日本人移民をボイコットする傾向に出てきたことは、実に由々しき事態であった。
 特に、1923年という年は、日本国にとって未曾有の災害である関東大震災に見舞われ、国内の経済は深刻な事態に陥っていたのだ。
 そもそも、ブラジルでの排日法案の根拠は「アジア人(日本人)は、絶対に同化しない」という人種差別であった。しかし、実際に日本人移民を受け入れているサンパウロ州の州議会や農業連合会等は、日本移民の功績を正しく評価し、このレイス法案に反対の立場をとっていた。
 田付大使は、ブラジル国民から日本移民に対する偏見を拭い去るには逆にブラジルの各州へ日本人移民を送り出し、そこで信頼を勝ち得る事がその解決策だと自ら信じていた。
 余談だが、パラー州出身のジオニジオ・ベンテスはリオの医科大学を卒業した医師であった。現在、同名の心臓外科の医師がアドベンチスタ・ベレン病院で働いているが同医師はジオニジオ・ベンテスの孫に当たる。
 ジオニジオ医師と親しい、アマゾニア病院の生田勇治医師の話では、彼は心臓外科医としては、サンパウロまで名が通っているほどの一流の医師だそうだ。日系人で、この医師の手により心臓手術を受けた人は何人も居り、今でもジオニジオ家と日系人との係わり合いはこんな形で続いている。
 日本政府は、アマゾン地方への調査団を鐘紡(鐘淵紡績株式会社)へと依頼した。
 これは、当時の日本政府にアマゾンまで調査団を派遣する経済的な力が不足していた事と、鐘紡はサンパウロ州での綿栽培の調査や企業進出の場合に備えて仲野英夫(後にパラー州カスタニヤールに定住)、若杉駒次郎、杉彦熊等の社員をすでにブラジルへ派遣していた経緯が有ったからだ。
 こうして、鐘紡重役の福原八郎を団長とする総勢9名の第一回アマゾン調査団は、1926年3月20日に横浜港発の太洋丸に乗り込み、一路ニューヨークを目指した。4月10日に、ニューヨークへ到着し、それから8日後にはブラジルへと出発する予定であった。だが、折からのニューヨーク港内での作業員のストライキと、携行荷物のトラブルで予約していた「JUSTIM」号に乗船が叶わず、一行は次の船をさがすまでに1カ月近くも同地で足止めを食らった。
 この間、大使館側では福原調査団を出迎える為にベレンへと出発した。田付大使を筆頭に大使館嘱託の粟津金六、関根軍平海軍武官夫妻、サンパウロ領事館江越信胤農業技師等のメンバーであった。福原一行のベレン港到着予定は、当初5月初頭で有った事から、田付大使らはその日程に合わせて4月17日にリオ・デ・ジャネイロを出ている。
 ところが、福原団長等が実際に船を調達しニューヨークを出港したのは5月11日に入ってからであった。通常、ニューヨークからベレンまでの航程は12日程度であったが一行が調達した英国の貨物客船デニス号は船足が遅く、19日もかけてようやく5月29日にベレンへとたどり着いた。
 田付大使らは、福原調査団の到着が遅れている間、リオへと引き返さずマナウスを訪問している。これは、当時ベレンからリオまでの交通手段は船便しかなくしかも、リオ=バイアー=レシフェ=モソロ=フォルタレーザ=サンルイス=ベレンと船は各都市へ寄港して行くので、片道11日間も掛かっていたからであった。
 リオへ一旦戻り、また出直すと言う事ができなかったのだ。田付大使一行のマナウス訪問は予定外のスケジュールであったが、エフィジェニオ・デ・サーレス州知事は大使一行を歓迎しこの地でも、「アマゾナス州の開拓の為に日本人移民の派遣」を要請されている。
 大使一行中の粟津金六がこの話を受けて後に、東京の実業家・山西源三郎と組んでアマゾナス州から百万町歩の州有地コンセッション契約を結んでいる。これが、衆議院議員の上塚司と繋がり後の日本高等拓殖学校、アマゾニア産業設立から高拓生のパリンチンス地方への入植開始へと歴史が流れて行くのだ。
 実は、その発端が福原調査団のベレン到着の遅れだったとは意外なものである。福原調査団は、アカラ川流域とその支流のアカラ・ペケーノ川沿岸の土地を移住の適地と選び、この後、1929年からアカラー(現トメアスー)への日本人移民が開始された。

▼アマゾン地方開拓の変遷

 ベレンの町は、マラニョンを占拠していたフランス人を追放したポルトガル軍が余勢をかって1616年に、現在のヴェール・オ・ペーゾ近くの高台に要塞を築いたのが始まりである。それから、60年後の1676年にアマゾン開拓初のヨーロッパ移民であるアソーレス移民50家族234名が、アマゾンの土を踏んでいる。
 ポルトガル領アソーレス島からの男子移民は、軍事訓練を受けており開拓と防衛とを兼ねた移民だった。この為に、1620年から北東伯マラニョン、セアラー等から、南部のサンタカタリーナ、リオ・グランデ・ド・スールまで、ブラジル全土へとこのアソーレス移民が送り込まれている。
 1727年には、軍人フランシスコ・デ・メーロ・パリェッタ軍曹(現在の階級だと少佐)によって、隣国の仏領ギアナから持ち出し禁止のカフェーの苗がベレンへと運び込まれた。アマゾンでのカフェー栽培はこの後、瞬く間にパラー州内で広がり1748年には州内での栽培者は1万7千人にも上っている。ヘンリー・W・ベイツの著した『アマゾン河の博物学者』を読むと1800年代には、アマゾナス州のソリモンエス川やマデイラ川流域でもカフェーが栽培されていた事が記されてある。
 カフェーはその後、適地を求めて、マラニョンからリオ・デ・ジャネイロ、サンパウロ、パラナへと南下し、やがてカフェー労働者としてヨーロッパ移民や日本人移民が導入されることになるのだ。
 19世紀に入り、ポルトガルやフランス、スペイン、イタリア、ドイツ等からベレン近郊のベネビーデスや、ベレンの対岸にあるオンサ島へヨーロッパ移民達が入植しているが、その結果を出す事ができず後、雲散霧消している。
 19世紀から20世紀に掛けては、ゴム採取労働者たちが大旱魃の東北伯地方から逃れ、大量にパラー州へと移動してきた。その数は、16万人と記録されている。
 こうしたアマゾンでの開拓の歴史の変遷を経てやがて、日本人移民がアマゾンの舞台に登場する訳である。そして、州側の期待に見事に応え、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)とジュート(黄麻)の導入に成功し、ブラジルの主要な輸出産品にまで高めている。(つづく)

アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(6) ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(6) ニッケイ新聞WEB版より

▼アマゾン地方と日本人とのつながり

 ところで、日本人移民が入植するまでアマゾン地方に日本人は誰も居住していなかったのだろうか?
 実は、1929年第1回アマゾン日本移民が入植した年には、同地方にすでに150名ほどの日本人達が居住していた記録が残っている。
 これらの多くは「ペルー下り」の人たちであった。ペルー下りとは、ペルー国へ移民した人達が、配耕先を逃亡してアンデスの山を越え、ブラジル側のアマゾン地方へと入ってきた人達の事を指す言葉である。
 ペルー国への移民は1899(明治32)年、ブラジル移民に先立つ9年前に開始されている。790名の第1回ペルー移民は、7カ所の耕地に配耕されて行ったが、上陸から52日後には紛糾の火の手が各耕地で発生し、ペルー到着から4ヵ月後には移民会社(森岡商店)の在ったカヤオに321名の脱耕者達が集まってきている。
 この脱耕の主な原因は、やはり耕地での奴隷同然の待遇であろう。その上、マラリアや黄熱病も追い討ちをかけるように蔓延し、最初の1年間で143名もの犠牲者を出している。それでも、ペルー国への日本人移民は中止されることなく次々に母国から送出されてきている。
 耕地を逃げ出した移民たちの主な逃亡先は、ゴムブームに湧くアマゾン地方であった。ロンドニア、アクレー、アマゾニアそしてパラーへと、これらペルー下りの日本人達は定住の地を求めて移動して行った。
 ベレンの町に最初に居住したペルー下りの日本人は、1916年(大正5)頃で宮城県人の高橋庄助であった。その頃、川本清八、イト夫妻も市内に居住していた。川本夫妻は、3千メートル級のアンデス山脈を馬に荷を積み、徒歩で1カ月ほど掛けて越えボリビアへ抜け、そこからブラジル領のアクレーへ入り、ここから筏を組み、アマゾナス州へ移動した。
 マナウスから船でベレンへと渡ってくるまでに、7年間もの歳月を費やしていたのだ。川本夫妻は、ベレン市内から近郊のタパナンへと移り、この地を永住の地とし、長らく野菜栽培で生計を立てていた。
 イトさんが亡くなったのは1991年9月、95歳の生涯であった。この他、同じくベレン市内に居た江口保治、西原吉助、本郷勇等はアカラーでの開拓事業が開始されると、福原八郎に請われ、南拓移民会社の仕事に雇われている。ペルー下りの子孫は、今でもアマゾン地方の各州に存在する。何代にもわたり、混血が行われている事から外見での日系人の特色はほとんど無く、その日本の苗字でかろうじて日系で有る事が証明される。

コンデ・コマ(前田光世氏、『世界の宝庫アマゾン』藤井卓治著、サンパウロ新聞、1955年)

 ベレンの町には、異色の人物が居住していた。ブラジリアン柔術の生みの親で「コンデ・コマ」こと前田光世である。前田は、講道館柔道の猛者で異種格闘技での戦いを世界各地で繰り広げ、1915年(大正4)に同じ講道館の佐竹信四郎共々ベレン入りしている。
 その後、佐竹はマナウスに活躍の場を求め、同地へ定住。前田はベレンを選び、1941年市内の自宅でその生涯を終えている。1926年5月、福原調査団がベレン港へ到着した際、パラー州側の要人と伴に桟橋で福原一行を出迎え、その晩年は日本人移民の事業にも深く関わっている。
 ちなみに、アマゾン地方へ初めて足を踏み入れた日本人について記してみよう。これまで、1890(明治23)年にシルコ・インペリアル・ジャポネス(日本帝国サーカス)」を引き連れマナウスの町で興行した、竹沢萬次郎という人物が最も古い記録かと思われていた。
 ところが、それより4 年前の1886(明治19)年11月7日付ジアリオ・ド・グランパラー紙に、「ナザレー祭り(注・ベレンの宗教祭)に日本人等がやってきて花火を打ち上げる」と、言う記事が有った。日本と言う国は、当時のベレン市民には馴染みがなかったのか「中国の近く」と、注釈までつけてある。
 僅か数行の記事だが、この日本人とは一体何者だろうか? しかも、製造した花火をベレンへと船に積み込み運んで来たのだろうが、どこでそんな物を作ったのだろうか? ブラジルへの日本人先駆者の一人である、鈴木貞次郎(南樹)が著した『埋もれ行く拓人の足跡』という本が有る。
 この本の中に、移住前史の時代にブラジルに居住していた日本人が紹介されている。軽業師だった竹沢萬次郎の名前は出てくるが、花火を扱うこの謎の人物については何も記されていない。アマゾンは、1885年以降ゴムブームで湧いていた。もしかすると、そんなアマゾンを舞台にひと儲けしようとヨーロッパや米国経由の船でアマゾンに乗り込んできた人物だったのかもしれない。

▼粗製乱造の戦後移住地

 第2次世界大戦終了後、ブラジルへの日本人移民が再開されたのは1952(昭和27)年に入ってからである。この年の12月28日、戦後第1回ブラジル計画移民17家族54人が、さんとす丸で神戸港を出航し、入植先のアマゾンを目指した。戦前のブラジル移民は、1941(昭和16)年5月のぶえのすあいれす丸が最終船だったので実に、11年7カ月ぶりの日本からの移民送出であった。
 このさんとす丸は、西回りの長い航海であった。シンガポール、アフリカを経由してリオ・デ・ジャネイロへ入港したのは翌年(1953)2月11日。ここで、移民達は「さんとす丸」から下船し、同地の移民収容所へ入所。アマゾンへ向かうブラジル国内船「カンポス・サーレス号」への乗り換えを待った。

辻小太郎氏(前同)

 「さんとす丸」がリオ港へ到着した日、戦後第1回日本人ブラジル移民実現の立役者とも言える辻小太郎(汎アマゾニア日伯協会創立者)とエリアス・リベイロ・ピント(パラー州ジュッタ栽培者協会)、それに「さんとす丸」の奥山船長らはペトロポリスに在るリオ・ネグロ宮殿を訪れ、ゼツリオ・バルガス大統領に移民到着の報告とその受け入れに対するお礼を行っている。
 また同じ頃、「さんとす丸」で入港した日本人移民と入れ替わるようにリオ港を経由してイタリアへと向かう「コンテ・グランデ号」が、ひっそりと桟橋を離れて行った。
 この船は、ブラジル移住の夢破れて故国イタリアへ帰国して行く400名の移民達を乗せていた。これらのイタリア移民は、サンパウロ、パラナのコーヒー園で雇用農として働いていたものだが、農園主側と労働条件が折り合わず帰国して行くものであった。イタリア移民達の訴える、農園での劣悪な労働条件とは例えば次のような物であった。
★用意された住居が木造の小屋で、しかも床が土間で粗末過ぎる
★日給が低すぎる
★農園が町から離れすぎて生活がしにくい
★イタリアで聞いてきた仕事の内容と農園での実際の仕事内容が違う―等であった。(1953年2月12日付リオ・ウルチマ・オーラ紙)。
 戦後のブラジル日本人移民は、この第1回アマゾン計画移民に続き、この後毎年続々とアマゾンの僻地の入植地へ送りこまれている。これらの日本人移民達が、イタリア移民の帰国理由を知れば、一体何を感じたであろうか。
 日本人移民達がこれから向かう新天地は、そのほとんどが人跡未踏の原始林の中で、住居すら自分達の手で作らねばならなかった。一旦入植地へ入ると、イタリア移民の様に故国へ舞い戻る事は叶わず、それこそ、石に噛り付いてでも耐えるしか道はなかったのだ。
 2月21日、移民等はカンポス・サーレス号でリオを出航し、パラー州の州都ベレンへと向かった。ベレン到着は、3月7日。日本を出発して早2カ月の時が経過していた。一行は、ベレン港で更に川船に乗り換え、アマゾン河を遡行。中流地帯のパリンチンスへと到着したのは、2週間後の15日であった。日本よりの新来移民が配耕されたこの年、アマゾン河沿岸のジュート(黄麻)栽培地帯は50年来と言われるほどの大増水下にあった。
 これが、原因となり大きな問題が発生した。入植僅か13日目で、退耕者が出てしまったのである。戦後再開された初の日本人移民は、日伯両国政府が期待し注目していた特別な移民であった。
 この為、この事件は、各方面に大きな反響を呼んだ。アマゾン河の中流地帯に、5千家族2万5千人のジュート栽培者を導入するという上塚司、辻小太郎の構想は、こうして唐突に計画変更を余儀なくされた。
 敗戦国の日本本土には当時、外地からの引揚者が700万人ほども溢れかえっていた。日本政府にとって移民事業は、戦災復興の命運をかけた国家的事業であり、ブラジルへの移民送出をこんな事で中断させる訳には行かなかった。
 アマゾン地方への日本人移民はその当時、ブラジル政府との間で交わした特許権取得者・辻小太郎が興した移民受け入れ会社「アマゾニア拓植協同組合」(後にアマゾン経済開発株式会社)が取り扱っていた。
 辻は、日本から待ったなしで次々に送出されてくる大量の移民を捌くために、アマゾン地方で入植可能な場所が有れば事前調査をする間もなく、その地へと移民達を送り込んでいった。このため、後に様々なトラブルが各移住地で発生している。これら日本人移住地の大半は、入植者達がその地を離れ、今は「消えた移住地」となっている。戦後アマゾン日本人移民は、敗戦の混沌とした特殊な状況下から生み出された、移民の負の歴史と言えるのかもしれない。(終わり)

《ブラジル》職権乱用防止法で、ボウソナロ大統領は板ばさみ=一部項目に拒否権行使か=モロ法相「慎重な検討」要請 ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル》職権乱用防止法で、ボウソナロ大統領は板ばさみ=一部項目に拒否権行使か=モロ法相「慎重な検討」要請 ニッケイ新聞WEB版より

ボウソナロ大統領(右)(Marcos Corrêa/PR)

 【既報関連】14日に連邦下院議会が職権乱用防止法をスピード承認してから一夜明けた15日、法案に反対した下院議員や、検察、司法当局、果ては政権内部のセルジオ・モロ法相までが、ボウソナロ大統領(社会自由党・PSL)に対して法案の一部に拒否権を行使するようにと働きかけたと、16日付現地各紙が報じている。
 同法案は、「ラヴァ・ジャット作戦による汚職捜査に対する政界からの反撃、報復」といった要素を多分に含んでおり、PT(労働者党)や民主党(DEM)など、本来は政治志向がまるで違う政党の議員が、こぞって賛成している。
 「政治経験は豊富ではないが、その分、政界の垢にまみれていない」とのイメージを打ち出し、昨年の選挙で躍進したPSLなどは、党として法案に反対した。
 法案に反対している銃規制緩和推進議員団は、既に二つの点で拒否権が行使されるだろうとの情報を得たとしている。
 その二つとは「正当な根拠なしに捜査を行ってはならない」の項目と、「不適切な方法で手錠を使ってはならない」だ。
 〃正当な根拠〃や〃不適切な方法〃も解釈の幅が広く、汚職や犯罪捜査対象となった容疑者の弁護側が「不当捜査」を訴える口実になる。
 また、「調査対象者、収監者、被害者などをの写真や動画を、本人の同意なく撮影してはならない」の項目も拒否される可能性がある。
 また、職権乱用防止法に含まれているが、拒否権行使を要望されていない項目として、「司法当局の正式な許可や現行法が認めるような条件が整わないのに、捜査目的と称し、居住者の同意もなく、住居や私有地に侵入することを禁じる」などもある。職権乱用防止法には、違反行為別に、失職、罰金から禁固刑までが想定されている。
 拒否権行使の可能性について問われたボウソナロ大統領は15日、これからその可能性について考えるが、職権乱用が全くないわけではないと答えた。
 PP(進歩党)、DEM(民主党)、PRB(ブラジル共和党)、連帯の4政党からなる20人の議員団は、20日に大統領と面会し、同件について話し合う予定だ。裁可期限は15日以内だ。
 自身の推す犯罪防止法より先に、犯罪を取り締まる側の権限を抑制しかねない法案を通されてしまったセルジオ・モロ法相は、「誰だって職権乱用には賛成しない。しかし、職権乱用防止法により、検事や検察、判事の職務が脅かされないか、慎重に検討する必要がある」との書面を出した。
 また、連邦検察庁も、「この法案は、捜査対象者、被告人たちに、捜査機関こそ罪を犯していると糾弾する権利を与えるもので、犯罪や汚職捜査の効力や各機関の独立性を損なわせる」と
、より踏み込んだ声明を発表している。


新政府と国会の仕事ぶりを拝見=峠は越えたか、年金改革法案=聖市在住 駒形 秀雄 ニッケイ新聞WEB版より

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新政府と国会の仕事ぶりを拝見=峠は越えたか、年金改革法案=聖市在住 駒形 秀雄 ニッケイ新聞WEB版より

息子のエドゥアルド下議(中央)とボウソナロ大統領(右、Marcos Correa/PR)

 青空がのぞく暖かい日があったかと思うと、急に雨模様の寒い日が訪れたり、中々はっきりしない天気が続きます。
 今年1月からはボウソナロ政権が発足し、国会の方でも旧いタイプの政治家は去り、多くの新議員が登場してきました。
 「さあ、これで我がブラジルも明るい未来へ向けてスタートを」と期待をしたのですが、今、寒い風の吹く8月になっても、さっぱり景気は良くならないし、政治の方でもこれというニュースが流れて来ません。「何だ替り映えがしないな、これまでと同じことか」と国民は少しガッカリしています。
 しかしまあこの世の中、ただ待っていても 果報は来てくれません。政治の中心ブラジリアではガタガタやってるようなので、今日はちょっとその辺を拝見してみましょう。

▼下院を通過した年金改革法案
 ブラジルの年金を中心とした社会保障制度は大きな財政赤字の源となっており、このままでは年金(INSS)だけでなく、国の財政も破綻だと言われておりました。
 歴代政権がこれの改革を試みて来ましたが、「総論賛成、各論反対」のため、国会で多数の賛成票を得られる成算が立たず、結局お流れになっていました。
 それがボウソナロ大統領、パウロ・ゲーデス経済相などの尽力を得て8月7日、法案は下院を通過したのです。賛成票は定数513票の内、379(1回目)/370票(2回目)で、予想を大幅に上回る政府側の勝利でした。
 この改革法が実施されても、現在年金を受け取っている我々の取り分は変わりません。ですが、今後10年間で9千億レアル強の赤字削減になると発表されており、関係者一同一安心と言うところでしょう。
 今までの政権時代は国会議員の賛同を得るため、各議員に裏の金(メンサロンと言われた)を払ったり、あるいは、大臣、各省や有力公社の役職(利権に結びつく)を提供するなどして、票まとめの問題を解決してきた訳です。
 ですが、今回はこの様な汚職方式を取らずに、これだけの改革をやり遂げようとしている。これはブラジル政界では画期的なことで、大いに賞賛に値すると言える訳です。(パチパチー! 拍手です)
 ただし、早まらないで。新年金法は未だ成立したのではありません。これから上院の審議、採決に回されて、ここで定数81の6割(49票)以上の賛成が必要とされます。上院としても、上院の名誉にかけて厳正に審議をするでしょう。ですが「やっとここまで来た法案を上院が異議を唱えてぶち壊すことはあるまい」というのが、大方の見方です。法案の上院通過は9月中になると見られています。

▼適格なら身内でも大使に出来る(?)
 先日大統領が「息子のエドアルドを駐米大使にしたい」と発表し、周囲を驚かせました。「エドアルドは英語もスペイン語も堪能だし、議会の外交部会での経験もある」と言うのです。駐米大使と言えば要職で、従来は外務省の幹部とか政界の大物が就任するポストだったのに、「やっと35歳になったばかりの若造に、しかも自分の息子をか」「これは縁故採用じゃないか。人を入れ替え新しい政治をやると言っていたのに、これじゃ旧式政治家のやり方とちっとも変わらない」と、俄かに議論が巻き起こりました。
 しかしボウソナロ大統領はそれには関わらず、米国に新大使任命に関する事前合意をもとめました。これに対し、米国からは8月9日、エドアルド氏任命にAGREMENT(合意)が来たのです。
 この種の人事については常識的には非公開で打診し、承諾を得てから公開するのが普通なのですが、今回は始めから公開でなされました。その上、米国のトランプ大統領からは「ボウソナロの息子なら知っている。しっかりした良い男だ。駐米大使に適任だ」というおまけのコメントまで発表されているのです。
 上院議員の内では「何だかボウソナロにいいようにやられているようで面白くない」という雰囲気もあるのですが、米大統領のお墨付きまで貰った案件をここで否決、ご破算にするのも穏やかではありません。
 大使の任命には、上院でSABATINA(資格審査)の様な質疑がなされ、その後採決にかけられます。ボウソナロ側も審査の結果不合格では面子丸つぶれですから、事前に下工作をして、承認多数のめどが付いてから、議案を上院に回すでしょう。
 と言う事で、この件もボウソナロの思惑通り、若い新駐米大使誕生の可能性が大いにありとなります。

▼アマゾンの密林は切るべきか、残すべきか
 ボルソナロ氏は選挙前から、「ブラジルはまだ発展の余地が沢山ある。アマゾンの密林を開発し、農牧地にすれば良い。アマゾンにある自然保護区内にも地下資源があるだろう。必要なものは開発すれば良いのだ」と言っていました。
 開拓初期の移民は原生林の樹を切り倒し自分の農地とし、生活の糧としました。これを再現すれば良い、と言うのです。
 これに対し、自然、環境保全グループは反対です。「アマゾンの樹はいっぺん切ったら中々再生出来ない。植生も変わる。自然環境を破壊すれば世界的に異常気候をもたらし、被害が出る。人間は自分で自分の首を絞めることになるのだ」との論拠です。
 ドイツなどヨーロッパ諸国はこの自然保護グループで、偉いことに、アマゾンの自然保護の為に巨額の資金まで提供しているのです。それにも関わらず、開発グループの勢いは止まりません。樹を切って売れば金になる。只みたいな価格で広大な土地が手に入る、関連業者もバックについている。

G20大阪サミットに出席したボウソナロ大統領(Clauber Cleber Caetano/PR)

 それで「今年6月までの森林伐採面積は、昨年比88%も増えている」と国立宇宙研究所(INPE)によって発表されました。丁度この6月末には大阪で世界のリーダーが集ってG20首脳会議が開催されました。
 出席するドイツのメルケル首相は、「ボウソナロさんに会って、このアマゾン自然保護について話し合いたいわ」と言っていました。
 一方、ボウソナロ氏は「アマゾンは我がブラジルの固有の領土だ。何のかんのと外国からの指図は受けない」と強気の発言でした。
 丁度このタイミングで上記アマゾン森林伐採の数字が発表されたのです。ブラジル対ヨーロッパ・グループの対面はどうなるか? それは自然保護団体、マスコミの注目の的となりました。
 しかし、G20で相反する両者の厳しい話はなく、記念写真に納まるとき、フランスのマクロンさん、ドイツのメルケルさんの間に立ったボルソナロさん、皆が涼しい顔で写っていました。さすがの外交センスでした。
 だが、この話、ブラジルで後があります。ボウソナロは、丁度タイミング悪く(?)森林伐採の進行を発表したINPEの態度が気にいりません。
 INPEは国の機関で、組織的には大統領の下にあるのです。「そういう重要な発表は上が承認してから発表するべきものだ。怪しからん」です。
 それに対し、学者肌のINPE所長は「アマゾンの樹木伐採監視などは人工衛星を使って科学的に行われている。この資料は公開でだれでもアクセスすることが出来るものだ」などと真面目な釈明をしたのです。
 でも、ボウソナロさん、階級尊重の軍人意識が強いのか、上官の気持ちを忖度できないIMPE所長を8月初めに解任してしまいました。
 「Voce Rua!」(外に出ろ!)。これも、気に入らない人間はすぐに入れ替えるトランプさんを習ったのかも知れません。
 このお話、どちらが正しいのかわかりません。でも結果は、現実は、以上の通りということでした。

▼難問・税制改革をやる!
付表

 ブラジルの税制は、時の政権の必要に応じて次から次へと創設、積み重ねられていったもので、公祖公課、大小合わせて50種類以上あるのだそうです。
 この税金が又、国(連邦)の税の他、州の税、市町村の税、と分かれており、それぞれ計算法、納入先も異なっており解りづらい。解からず間違うと大型の罰金がくる。
 企業、ことに日本など外国の企業には悩みの種でした。どこの会社に行っても経理関係の人が沢山おり「大勢の経理マンに仕事を与えるために、このように手間のかかる制度にしてあるんだ」と言う冗談が本当に聞こえるような状態なのです。
 ボウソナロ、ゲーデス経済相グループは年金法改革の成功に気を良くして、その勢い、熱の醒めぬうちに税制改革をやろうと取り上げたのです。税制改革案は今週にでも発表される筈ですが、幾つかある改革案の骨子は大ざっぱに言えば、次の3方策にまとめられると思われます。
(1)《制度の簡素化》たくさんある税金を出来るだけ集約して一つか二つの「付加価値税」にまとめる。
(2)《税計算の機械化、デジタル化を図る》出来るだけ人手をかけないようし、自動的に納税できるようにする。
(3)《公正、合理的な税制にする》一方に重く、他方に軽くのような不公平感を無くすような制度を作る。
 これらの原則は実は誰でもが分かっていることなのですが、それが中々実現に漕ぎ付けられないのです。
 それと言うのは、各分野で利害が相反したり、中には「自分が良くなるのなら、他人が悪くなるのは知ったことじゃない」と言う様な我利ガリ亡者も沢山いるからなのです。
 我らが愛する日本でさえ、昔から政治改革、税制改革などと唱えられながら、未だに全く前に進んでいません。問題解決の複雑さ、難しさが分かりますね。
 改革案の具体的内容については、分量も多く、紙面の都合もありますから、詳しくは今述べられません。それで、以下に一部だけ触れてみましょう。
#IPI、IOF、IR、PIS/COFINSの他、州税のICMS、市町村税のISS、IPTUなどを「IVA」(付加価値税)として一本化する。
#法人税(企業の所得税)を低くするが、その代償に株式配当金への課税や、いわゆる小切手税(CPMF)の復活を行う。
 このうち問題とされそうなのは、CPMF(通称小切手税)の復活でしょう。このCPMFは銀行へのお金の払い込み、引出しの度に一定率(前回実施時は0・38%だった)の税金を自動的に国庫に納入するというものです。
 この税はお金の動くたびに銀行のコンピューター処理で納付金が計算される。政府は何もしないでカフェーでも飲んでいても、自動的に国庫に税金が振り込まれます。金額が大きいし、他の税のように脱税の監視、管理(fiscalizacao)も必要ない。政府にとっては理想的な税と言え、一番復活創設したい税と言えるでしょう。
 しかし、お金を動かす度に税がかかるというのは、お金の自由な流通を阻害し、経済の近代化には逆行する税ですから、エコノミスト、実業界からはもう反対の声が上がって居ます。
 何はともあれ、この様に年金改革、税制改革と懸案が次々に解決されれば、我がブラジルは近代化に向けて前途洋々です。
 私達も、「ブラジルは汚職と泥棒の国だ。もう嫌になった」などと決め付けず、時には新聞のこの様な記事も読んで、これからも希望を持って生活していきたいものですね。――(この記事についてのご意見、感想などはこちらへどうぞ=
hhkomagata@gmail.com=)

アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(1)=唯一の第一回移民、山田元さん ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(1)=唯一の第一回移民、山田元さん ニッケイ新聞WEB版より

アマゾン第一回移民の山田元さん(2019年7月25日撮影)

 1929年9月22日、42家族、単身者9人の189人(トメアスー開拓70周年記念史より)がトメアスー移住地(旧アカラ植民地)に入植した。それから90年が経った今年、アマゾン日本人移住90周年祭を控える北伯。数々の苦難に見舞われたアマゾン移民の軌跡が残るその地では、かつての厳しい時代を乗り越えた移住者とその子孫たちが立派に活躍している。一足早い7月末、祭典の準備に追われるベレン、トメアスーに6日間滞在し、その様子を取材した。

 パラー州トメアスー郡で7月25日午後、今回の旅で最も重要な人と会う約束をしていた。トメアスー文化農業振興協会(文協)とトメアスー総合農業協同組合がある中心地、クアトロ・ボッカス(十字路)の近くに、その人の家はある。
 29年7月24日、神戸港で「もんてびでお丸」に乗った第一回入植者は、9月7日にリオ・デ・ジャネイロに入港した。一行は「まにら丸」へと乗り換え、同16日にベレン着、22日にアカラ河を遡行した船がトメアスー植民地の桟橋に到着した。
 その中で唯一存命で、今も、最初に割り当てられた土地に住むのが、入植当時2歳だった山田元さん(92、広島県、帰化人)だ。
 「さすがに2歳の頃は覚えていないけれど、5歳からの記憶はあります。自分の生まれた家の住所も覚えていますよ」。スラスラと淀みなく暗唱する元さんの記憶力は、驚くほど良い。
 「記憶は朧げ」と言いつつも、「5歳の時は、家の周囲にカカオを植えていました。最初は南拓の指導が悪かったというかね。周囲が藪だから、クチア(ネズミの一種)が発芽したカカオを全部食べてしまったんですよ。最初は全部失敗だった」と振り返る。
 入植時、2歳だった元さんの家族は父義一(31)、母スエノ(同)、次女三江(7)、長男元(2)の4人。長女文江と三女八重子は広島県に残し、母は四女すみれを身籠っていた。
 男手は父親のみの環境で育った元さんは、小学校の頃から農作業を手伝っていた。「学校では、毎日取っ組み合いの喧嘩をするやんちゃ坊主でしたよ」と笑うが、小学校卒業後は進学せず、労働力として一家を支えた一人だった。
    ☆
 1923年、時のジオニジオ・ベンデス・パラー州知事がリオの日本大使館を訪れ、田付七太初代駐伯大使に「勤勉な日本人を入れて開拓してほしい」と提案したことからこの計画は始まった。対する田付大使は、レイス法案(日本移民入国制限法案)が台頭してきたため、全伯に日本人移民を入植させようと考えていた。
 こうしてベンテス州知事の提案から始まり、日本政府はアマゾンへ調査団を派遣。その結果、邦人のアマゾン地域開発が決定し、28年に新事業のために南米拓殖株式会社が誕生した。
 そこから半年が経った頃に募集が始まり、第一回目のアカラ植民地入植者が決定。29年7月24日に神戸港から出発し、9月22日についにアカラ植民地に到着した。(つづく、有馬亜季子記者)

≪日本の往年の甲子園ヒーロの菊池投手好投≫ トロントの丸木さんからのお便りです。

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≪日本の往年の甲子園ヒーロの菊池投手好投≫ トロントの丸木さんからのお便りです。


丸木で~

日頃は地元チームを応援してますが、日本選手が出場する試合は全て観戦するネジレ応援団です。今日は先着二千人に帽子をくれました。往年の甲子園のヒーローがトロントでも見事なピッチングでした。9回96球でシャットアウト、ブルージェイズは2ヒット、8三振で手も足も出ずでした。球場の近くにある一幸舎で博多ラーメン14ドルを食べましたがサンパウロの一幸舎ではラーメン幾らでしょうか?ちなみに1カナダドル=2レアルです。  為念。

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花談議476 ≪古谷さんへ近況有難う御座いました≫

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花談議476 ≪古谷さんへ近況有難う御座いました≫
しゅくこさんからの返信です。

古谷さ~ん 

                 しゅくこです

近況のお便りありがとうございました。おひさしぶりですね。

文面が長いのも写真いっぱいも嬉しいですよ~。私も長くなりますのでご覚悟を!


ジョン君が亡くなってもう5か月ですか?   早いものですね。ペットロスはどなたにとってもきついみたいですよ。先日ジムからの帰り、橋のところまでくると、その中央線に置いた長いプランターの

角ツこに肩をおとした小さなおばあさんがポツンと座って。他にだれもいないのになにか一人で呟いているのです。

すれちがいざま、チラッと目を合わすと、わたしに、「○○ちゃんが死んでしまったのよ。あの子が生きがいだつたのに。」と悲しそうに見知らぬわたしに繰り返すのです。

悲しみを通り越して、すこし呆けた感じで痛々しかったです。

友人もペットロスから立ち直るのに苦労しましたが、乗り切るのは時間の問題でしょうか。

犬は情が深いので,飼いたいけれど旅行を考えて手のかからない猫にしています。その猫もシロが最後でしょう。

この子は厳寒期に造成地をさまよつてたところ保護したのですが、とてもやさしい、頭のいい子みたいです。

いまは滋賀県に嫁いでいったもと英語の教え子が、先週、三田に里帰りしてうちに遊びに来ました。

4才と6か月のお嬢さんを連れて。その4才のお嬢さんはいま人見知り真っ最中みたいで、お母さんの後ろに

隠れてちょっと顔を出してはわたしをにらみつけるのです。あまりのむき出しの状態にひるんでしまいました。

そんな状態が10分ほど続いたときに、シロがどこからかそれとなく現れ、その子の視界の中にちらっと出たり入ったり。その子は猫大好きなので、とたんに笑顔に。猫は一般的に大きな声を出す子供が苦手で、シロもそうなんですが、彼女が触れられる範囲にスタンバイし、すっかりうちとけた彼女はピアノを弾くは、歌うは、ムーミンのぺろぺろキャンディを爆食するは、・・・。

あまりの突然の変身ぶりにこちらがあっけにとられました。

ご機嫌最高潮になったところで、シロはだれにもきづかれないように、そつと二階の隠れ家に姿を消していきました。引き際の美しさ、完璧さは名優も顔負け。


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古谷さんのところでは、いまは6か月になる猫のジョイがやんちゃぶりを発揮しているようで、

写真をみているだけでも、頬がゆるんできます。ウサギのクレイトンは、ジョイに遊ばれているようで、

いいなりですか?ウサギは声を出してなにか表現するのでしょうか私も飼ったことがありますが、鳴き声は聞いたことがありませんでした。アパートはペットを飼えるんですね。日本のハイライズは、ほとんどがペットを飼わせてくれないようです。

金魚の水の話、おもしろかったです。納豆って、あの納豆ですか?  知りませんでした。よく売れているんですか?

わたしのまわりでは、どういうわけかメダカを飼育している人が多いです。

最近はその傾向らしいですね。


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きのうまで、三田は34-38度で熱中症にかかりそうでした。 あまのじゃくのわたしはそんな時や台風の時に大掃除をしたくなります。昨日は絨毯を干して片付け、板の間にしました。シロは涼を求めて玄関のたたきで寝てましたが、やっとエアコンの効いたリビングの床板でほぼ一日中寝ています。

長生きしてほしいです。また楽しいジョイ物語を読ませてください。 

写真は今朝6amの風景です。台風が近づいているせいで涼しくてmorning walkには最適でした。空が一部ナイアガラの滝を想わせてくれる色調でしたが、残念ながら、スマホではその輝きはだせませんでした。


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リオ州=ニテロイ橋でバスジャック=3時間の交渉後、犯人射殺  ニッケイ新聞WEB版より

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リオ州=ニテロイ橋でバスジャック=3時間の交渉後、犯人射殺  ニッケイ新聞WEB版より

観光名所で幹線道路だが、強盗などの事件も多いリオ/ニテロイ橋(Alexandre Macieira/Riotur)

 20日朝、リオ大都市圏サンゴンサロ市発のバスが乗っ取られ、リオ/ニテロイ橋上で停車。乗客、運転手、計37人が人質とされたが、午前9時過ぎに犯人が射殺されてバスジャックは幕を閉じたと同日付現地紙サイトが報じた。
 乗っ取られたのはサンゴンサロ市とリオ市を結ぶガロ・ブランコ社のバスで、5時10分頃、始発駅で乗り込んだ男が、モカンゲ海軍基地前の停留所を過ぎた後の5時25分頃、軍警だと名乗ってバスを乗っ取った。
 男が銃で運転手を脅し、ニテロイ橋上でバスを停車させたため、同橋のリオ方面行きの車線は午前6時頃から全面的に通行停止となった。
 通報を受けた連邦道路警察が現場に急行し、人質解放に向けた交渉を開始。8時までに女性4人と男性2人が解放されたが、1人はバスを出た直後に崩れるように倒れるなど、2人が救急隊の手当てを受けた。
 解放された人質によると、男は拳銃とテーザー銃、ガソリン、ナイフを持っており、「燃料だ、火をつけるぞ」などと脅していたという。拳銃は後に玩具と判明した。
 軍警特殊部隊の現場到着は6時50分頃で、1時間後には交渉役も特殊部隊に交代。他方、特殊部隊の射撃手は到着後すぐに消防車の屋根上で待機。指示が出次第、対応すべく準備していた。
 男はこの間、火炎瓶らしきものを投げる、交渉役の警官と言葉を交わす、警官がバスの脇に置いた箱を持ち込むなど、何度か車外に出た。
 均衡が破れたのは9時過ぎで、車外に出た男が警官に向けて上着を投げた後、再びバスに乗り込もうとした瞬間、数発の銃声が響いた。「やったぞ」という射撃手の仕草を見た報道陣は歓声を上げた。
 男は病院に運ばれたが、到着時には心肺停止状態となっており、死亡が確認された。男の名前はその後、ウイリアン・アウグスト・シウヴァ(20)と判明した。
 ウィルソン・ヴィッツェル同州知事はその直後にヘリコプターで現場に到着し、連警道路警察や軍警の功績を称えた。
 同知事によると、交渉のために現場に向かっていた犯人の家族は、警官や乗客らにわびていたという。この事件のため、リオ市やニテロイ市の交通は混乱し、通常の2倍の渋滞も生じた。

アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(2)=山田家を次々に襲う病魔、事故 ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(2)=山田家を次々に襲う病魔、事故 ニッケイ新聞WEB版より

入植当時の山田一家。左から父義一、元、すみれ(享年5)、三江、母スエノ

 山田元さんは、日に焼けた細い体を杖で支えながら歩く。ゆっくりと歩く足の両膝関節は間が開き、ひどく曲がっている。「足が曲がったのも無理ないんですよ」と元さんは苦笑する。
 「赤ん坊の頃、母親が朝から晩まで自分を背に結わえ付けて畑仕事をしたからだそうです。ブラジル人には『ペルナ トルタ(曲がった脚)』って冷やかされましたよ」。誰かに指さされても「足が曲がってても、ついているから良いだろう」と言い返していた。
 脚のように目に見えなくとも、入植当時のアカラ植民地での苦労は記憶に残っている。
 入植当初から、経済的苦境とマラリアなどの風土病の猛襲が移住者たちを苦しめた。元さんも例外ではなく、家族全員がマラリアに罹り、40度近くの激しい高熱に襲われた。
 入植後に妹すみれを生んだ母スエノは、アカラ植民地で弟允(まこと)、双子の妹和子、弟昭を生んだが、免疫力の弱い子供達は犠牲になりやすかった。
 「弟の昭はマラリアで亡くなりました。允も病気で死んだ」。それまでの様子から一転、声が低くぽつりと呟くように語り出した。
 「それから妹のすみれ。あの子は事故だった。母と自分でマラリアに罹った弟の允を病院に連れて行っている間に見当たらなくなり、マラクジャの木の下で血まみれになっているのを発見したんです」。
 次々と見舞われる苦難。10年で日本へ帰ると決めていた父義一は、退耕者が続出する中、一向に祖国へ戻ろうという素振りを見せなかった。
    ☆
 「親父はね、そりゃあ厳しかったですよ。軍隊上がりで、上等兵まで務めたそうですから」。元さんは在りし日の父親を思い出したのか苦い顔で笑った。真面目な浄土真宗の門徒で、口数が少なく働き者だったという。
 そんな父親が唯一、多目に見てくれたのが野球だった。「いつも頑固な親父が、野球だけはやらせてくれた。僕はトメアスーの野球チームの選手で、ポジションはショート。打撃も良かったんですよ」と得意そうに思い返した。
 一方、母スエノの話になった途端、嬉しそうに顔を綻ばせる。「自分の母を自慢するのはおかしいけど」と前置きし、「母はいつも笑顔で社交的な世話好き。ポルトガル語も喋って、ブラジル人との付き合いも良い人でした」と、一家を支える強く明るい女性だった。
 そんな母親に悲劇が訪れたのは、1945年9月10日。突然心臓麻痺で倒れ、帰らぬ人となった。(つづく、有馬亜季子記者、一部敬称略)


□関連コラム□ 大耳小耳

 トメアスー移住地の山田元さんに当時のマラリアの恐怖を聞くと、「過去帳見たら分かるけど、マラリアでバタバタ死んでいる」とその猛威を語る。山田家も例外ではなかった。また、病魔に打ち勝った妹すみれだが、唐突に事故で亡くなった。「家に帰ってマラクジャの木の下で『痛い、痛い』と倒れていた血だらけのすみれ。どうしたと聞いても答えられず、やっと医者が来た時は手遅れで翌朝方4時頃に亡くなりました」。すみれの死因は「近くに住んでいた乱暴者の種豚か、留守宅を狙った強盗か。とうとう最後まで分からなかった」と辛そうに顔をしかめる元さんの様子に、初期移民の苦難がにじみ出ていた。

《ブラジル》森林火災=世界規模で深刻な報道=今年に入り7万4千件以上=「黒い雨」が降る異常事態=大統領の開き直り発言も問題に ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル》森林火災=世界規模で深刻な報道=今年に入り7万4千件以上=「黒い雨」が降る異常事態=大統領の開き直り発言も問題に ニッケイ新聞WEB版より

パラー州での森林火災の様子(Twitter dos Bombeiros do Pará)

 森林伐採後の焼畑増加などが原因のケイマーダ(森林火災)が、8月20日までに7万4千件を超え、その灰が原因と見られる「黒い雨」も降り始めたことで、国内外でアマゾンなどの森林伐採問題が深刻な話題となっている。また、この問題に関してボウソナロ大統領が21日に行った「火災を起こしているのは自然保護の非政府団体(NGO)」なる発言も問題視され、世界的に報道されている。22日付現地紙が報じている。
 ケイマーダに関する報道は8月に入ってから増加傾向にあったが、特に深刻化したのは19日、寒冷前線に伴う雨雲が垂れ込めたサンパウロ市やサントス市などで15時過ぎに上空が真っ暗になるという現象が生じ、黒く濁った雨が降ってからだ。水の濁りは、北部や中西部、パラグアイやボリビアでの森林火災の煙が原因とされている。
 それと並行し、焼畑を制御しきれず、環境保護区に広がるケースも増えている。先住民保護区や環境保護区への火災拡大は18~20日だけで68件起きている。
 国立宇宙研究所(INPE)によると、20日現在のケイマーダの件数は7万4155件で、前年同期より84%増えている。焼けた規模は3万2500ヘクタール。サンパウロ市のイビラプエラ公園206個分の広さだ。
 ケイマーダは本来、森林伐採の後などに農牧地を整えるための焼畑をさし、森林伐採増加とも密接な関係がある。今年に入ってからのケイマーダの半分以上は法定アマゾン内で起きており、その中でも森林伐採が多い地域でケイマーダが多い。具体的には、アプイ(アマゾナス州)、アルタミラ(パラー州)、ポルト・ヴェーリョ(ロンドニア州)、カラカライ(ロライマ州)などだ。
 この状況は、環境問題に関心の強い国々で問題視され、ブラジルよりも大きく報道されている。英国のガーディアン紙は「ブラジルで7万2千件の森林火災」、米国のニューヨーク・タイムズ紙も「2013年の記録開始以来、最大の森林火災数」と報じている。これらの報道で使用された米国航空宇宙局などによるアマゾンの空撮写真や映像では、煙が立ち込める様子も観察できる。
 だが、これらの報道に対し、ボウソナロ大統領は「森林火災を起こしているのはNGOの環境団体で、アマゾン基金の資金を差し止めている政府への抗議キャンペーン」と根拠もなく発言。その上、「法定アマゾン内の州知事たちが協力している」「NGOはアマゾン基金の40%の援助金を得ていた。その金ももうないが」と、自身と対立する北東部の知事や、ノルウェーとドイツからのアマゾニア基金の資金凍結も皮肉った。それも世界中に打電されている。
 また、リカルド・サレス環境相も「北部からの煙が黒い雨の原因というのはフェイクニュース」などと語っており、バイア州サルバドールで開催中の「気候週間」のイベントに登場した21日に会場から罵声を浴びた。

アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(3)=早すぎた母との死別と結婚 ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(3)=早すぎた母との死別と結婚 ニッケイ新聞WEB版より

本紙記者と共に50年ぶりに訪れた、密林の中にある水車小屋跡(2009年撮影)

 山田元さんは、13歳の頃から父義一が作った精米所に通い、水車を回していた。精米は年に千俵。細い体だが、「自慢じゃないけど、あの頃は1人で1俵60キロを担いだんだ」。
 それを馬車に5~6俵積み、3~4時間かけてトメアスー桟橋まで運ぶのを14~15回繰り返し、船に積む。さらに十数時間かけてベレンまで持って行く。米ぬか、もみ殻は畑の肥料へ回し、トマトやキャベツを作った。
 17歳になった時、元さんに人生の転機が訪れた。母親の紹介で、今村豊江との結婚が決まった。豊江は14歳の頃に両親を亡くしており、天涯孤独の身。
 「トメアスーの支配人の家で女中として奉公していた豊江を母が気に入ったんだ。それで『大人しい娘だからあの娘を嫁にもらえ』って」。元さんは当時の状況を思い出し、照れくさそうに笑った。
 母親が勧めた縁談が結ばれ、安心したかのように数カ月後、母スエノは亡くなった。享年48、死因は心臓麻痺。働き詰めの人生だった。
   ☆
 元さんの母スエノには、戦死した前夫がいた。その間に一人息子ができたが、婚家に残し元さんの父義一と再婚。後に元さんは異父兄と会っている。
 元さんが病気でベレンに入院していた頃は、異父兄が書いた自分史が贈られた。「『同じ腹を痛めた弟のお前にやるから、これを読んで頑張ってくれ』と言われたんです」と、元さんは何度も繰り返し微笑んだ。
    ☆
 母が亡くなり、山田家は深い悲しみに包まれた。そんな気持ちを振り切るかのように、父義一の「早く嫁にもらいなさい」という言葉もあり、46年5月、元さんは豊江と結婚披露宴を行った。共に18歳、若い二人の門出を皆が祝福した。
 この時の気持ちについて、元さんは「いやね、本当はこの頃女なんか恐ろしかったんだよ」とユーモアたっぷりに語る。「今と違って、当時は男女の交際に厳しかったから。恥ずかしい話だけどね」。
 結婚し晴れて夫婦となった二人は、精米所に住み始め、昼も夜もなく働いた。ここでは、長女の里子と次男の充が生まれた。
 元さんは精米所があった水車小屋には長らく訪問していなかったが、09年に本紙記者の依頼で50年ぶりに訪れた。その場所は木が生い茂っており、変わり果てた姿になっていた。(つづく、有馬亜季子記者、一部敬称略)

□関連コラム□ 大耳小耳
山田元さんが入植当時のアカラ植民地は、「元々インディオ(先住民)しか住んでいなかったような場所」というような未開の地。当時米の収穫時期には、同地から500キロ離れたパラ州カメタ郡から、1週間かけて応援に来たという。カヌーに乗って川を下りながら来たカメタ郡の人達は、「途中でビショ・プレギッサ(ナマケモノ)を掴まえて土鍋で煮て食べていたんですよ」。元さんは、「肉が固くて5時間くらい煮ないと食べられないんですよ。でもあの時はあれしかなかったんだ」と説明。ちなみに肉は固い割に草食動物だからか癖はなく、味はそこそこ美味しかったのだとか。これも日本人移民の逞しさを感じる逸話。

花談議477 ≪夏の終わり≫カリフォルニアの村さんとしゅくこさんの交信です。

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花談議477 ≪夏の終わり≫カリフォルニアの村さんとしゅくこさんの交信です。


しゅくこさん


  御免なさい、古谷さん宛ての返信でしたが失礼ながら私からの伝言です。


一昨日常澤夫妻を筆頭に、米国で1年農業実習を経験した仲間の3夫婦と2名の男性の10名がDenver空港にやって来ました。


毎年この旅行は続けていますがq今回はColorado州とWyoming州そしてSouthDakota州の国立公園を回ります。


Denver到着後Sakura SqueareにあるRalph Carr元州知事の銅像に拝礼出来ました、戦中彼は州知事でR大統領の日系人の強制収容令に只一人反対した、割り当てられた州内にも日系人を受け入れたが他の収容所とは全く異なり自由に外出出来た、しかし州内での排斥はあったが知事は極力日系人への差別偏見を禁じた。


戦後日系人の代表によって憲法違反行為であるとの訴えを支持した知事であった、日系社会は彼の功績を称え市内に銅像を建て感謝の念を忘れない。


昨日は350Mile走行しMtTeton国立公園を見学した、絶景を堪能した。今日はYellowstone国立公園訪問、米国で最も人気のある公園で有名なGeyserを見学Buffaloの群れやトナカイを見学できみ皆さん感激でした。


明日はYellowstoneの北半分を見てCodyというBuffalo Bill西部劇も舞台に迫ります。10日間で3200Mile走ります。


常澤さんから宜しくとの伝言です、常澤農園は何時でもWelcomeとの事です、10月下旬グループ恒例の同期会が浅草で開催です。


数日早く訪日し夫婦で常澤家訪問の要請を受けていますその折にでも常澤農園にお出で下さいとの伝言もありますのでお伝えします。


お元気でお過ごし下さい。村松 (村さん)


 geyser (ガイザー)間欠泉

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Calif の村さ~ん、はなさ~ん みなさまへ


   しゅくこです


村松さ~ん 

近況をありがとうございました。楽しく拝読いたしました。


いいお仕事してらっしゃいますね。


ベテランガイドのご案内で、みなさん安心して旅行をされているのではないでしょうか。


常澤ご夫妻もお元気で旅を楽しまれていることでしょう。


個人ではなかなかできない、ダイナミックでしかもこまやかに計画されたアメリカ旅行! 村松さんならでは・・ですね。


日系人の強制収容にただ一人反対したといわれる元コロラド州知事、Ralph Carrさんのことは、初めて知りました。旅の第一日を彼の胸像の前で拝礼されたとか・・。素晴らしい。


どうぞお元気で楽しい旅行をお楽しみください。次回の旅行記をおまちしています。


はなさ~ん& みなさまへ


しばらくご無沙汰しています。ご存知の通り、オレゴン州のポートランドから32才の青年マイケル 自称「舞蹴」が 17-20日まで泊まりにきていました。


縁とは不思議なもので、わたしの元ホストファミリーで当時7才だった長男のリードとは彼が64才になったいまでも行き来してつながっていますが、そのリードの妻の甥 マイケルが大学で日本語を専攻し4-5年勉強したあと、しばらく心身障害者の子供たちを相手にnursely school で働き、いまは日本語の読み書き、会話が得意で、将来、日本の学校でALT (Assistant Language Teacher)の仕事をしたいというのです。


来日前の交信ではあまりに日本語が巧みなので、もしかして両親のどちらかが日本人? それとも意外に黒人系? などと想像をいろいろしていましたが、送ってきた写真を見てコテコテの陽気な白人アメリカ人だったので、

おもわず笑ってしまいました。

本人はあちこち観光するよりも (友人のお招きで岡山には行きましたが)、三田で近くの公園をジョギングしたり、温泉に行ったり、わたしたちや孫たち、ALTの友人たちと日本語でおしゃべりがしたい、と分かりやすい客なのでした。


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それには少し理由があって、彼は16才の時からかなりの小麦粉アレルギーだったのです。なので、自分の食べるものは自分で責任をもちたい、

一緒にスーパーに行ってあるったけの牛ミンチのパックと冷凍刻み野菜を仕入れ、それを狭い台所で自分で炒めて料理し、数日間の「作り置き」(本人の好きな日本語)を持参したタッパーに詰めて、冷蔵庫で保管して置く。これを食事の時に出して食べれば、気を使わせなくて済むということでした。


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       飲み物も自己責任で用意する。わたしははじめて、醤油、酢、味噌、他のほとんどの食品に小麦粉が入っているのを知りました。お醤油は探し歩いた4軒目のイオンでやっと「小麦を使わない醤油」をみつけました。それだけならいいのですが、コンタミネーション(原材料に含まれてなくても、製造過程で意図せずしてアレルギー源が含まれてしまうこと。機械や工場、器具、空中で舞った粉などから微量に混入するとアレルギーがキツイ人はそういったことにも反応する)問題もあり、こんなに品物の裏側を注意深く読んで買い物をしたのは人生初めてでした。

小麦アレルギー意外は何の問題もない 優しい明るいスポーツ好きのいかにものアメリカ青年。


朝、夕のジョギングは欠かさず、話し好きで、ずいぶんたくさんの日本語を

覚えていきました。「手際がいい」「面構えがいい」「宝の持ち腐れ」など。


 無事帰国して送られてきた日本語は完璧でした。みんなに見せていいと了解を得ていますので原文のまま、ちょこっとごらんください。わたしの夏は久しぶりに非日常的な日々で終わりました。長くなってしまいごめんなさい


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シュキさん、イチローさん

おはようございます。無事に家に着いたことをお知らせします。何から何までありがとうございました。


お二人はとても優しいですね。これは、私たちが岡山で遊んだ時に書いたときの日記です。

「シュキさんは1962年に留学生として私の伯父のリードさんの家庭に滞在しました。

リードさんの紹介で、土曜日から私は、三田という美しい町にあるシュキさんの素敵なお宅に泊めていただくことができました。

シュキさんの家族と一緒にお昼ご飯をいただき、人と自然史博物館に行き、心地良い温泉に浸かりました。


それに、今日は日帰りで岡山に行って、烏城を観光しました。


 
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明日、帰国するのでちょっと感傷的になっています。しかし、寂しい気持ちより感謝と喜びでいっぱいですね。


これ以上のこの旅の締めくくりは他になかったと思います。

関西が大好きです。特に三田です。本当に優しい人たちがいて、素晴らしい公園があり、都会と田舎の両方の感じがあるので、いつかここに住みたいと思います。ありがとうございました。これからも宜しくお願いします。

では、

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花談議478 ≪前田さんの逝去とイペーアマレーロ≫地元ポルトアレグレから。

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花談議478 ≪前田さんの逝去とイペーアマレーロ≫地元ポルトアレグレから。

日本祭りが無事終了し一息付いたところですが、この日本祭りに今年は少し早い感じのイペーアマレーロが各所で満開になっており9月7日のブラジルの独立記念日前後に咲くブラジルの国花イペーが8月中旬の日本祭り前後に咲いていました。
昨夜遅く(ブラジル時間)杉井さんから驚愕の知らせが入っているのを見ずに寝てしまいましたが、今朝起きて鹿児島県霧島にお住いの前田久紀さんが亡くなられたとの知らせに驚きました。前田さんとは、鹿児島大学の有隅先生とブラジルの国花イペーの花を日本で咲かせようと始めた花咲か爺の会の創設者の御一人で長年のイペーの花を通じての仲間でした。日本では、『花の下で春死なん』と云う言葉がありますが、ブラジルの国花、黄色いイペーアマレーロの花が散るこの時期に前田さんが先に逝ってしまいました。前田さんが精魂を込めて寒い地方にも生き延びて花を咲かせる耐寒性の強いイペーを育てる事に心血を注ぎ、寒い北海道でも育ててて居られた結果を見ぬままに逝ってしまいました。イペーの花を日本に咲かせようとの願いは、この花咲爺の会の夢であり、今後も続けて行きたいと思います。日本時間8月25日(日)の午前10時が前田さんの告別式とのこと、現在ポルトアレグレで咲いているイペーアマレーロの写真を前田さんの墓前に捧げご冥福を祈りたいと思います。何時の日か予備校からの同窓生、谷君や先に逝った681人の同船者の仲間、前田さん始め私たちの50年!!の仲間達に『おおよく来たな』と気持ち良く出迎えて貰えるあの世に行くのを楽しみに生かされている余生を先に逝った仲間達に捧げたいと思います。この時期に撮ったイペーアマレーロの花を供えて前田さんのご冥福を地球の裏側からお祈りしたいと思います。静かにお休みください。又お会いできる日を楽しみにしています。

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《ブラジル》アマゾン森林火災に国際的批判強まる=緊急対策でG7召集へ=ボウソナロ政権は当初反発も=世論に押され対策会議 ニッケイ新聞WEB版より

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《ブラジル》アマゾン森林火災に国際的批判強まる=緊急対策でG7召集へ=ボウソナロ政権は当初反発も=世論に押され対策会議 ニッケイ新聞WEB版より

引き続くアマゾンでの火災(ロンドニア州、Esio Mendes)

 【既報関連】アマゾンでの森林伐採の増加と森林火災の拡大、ボウソナロ大統領の非政府団体(NGO)犯人発言への批判が、21日以降、世界的な話題となっている。連邦政府は当初、それに対して反発の意を示していたが、22日には緊急会議を行い、対策に向けて動きはじめた。23日付現地紙が報じている。
 22日、世界の大手マスコミは大々的にアマゾンを中心とするブラジルの森林火災の拡大を報じ、国際的な環境対策を無視してアマゾンでの森林伐採を推進するボウソナロ政権を批判した。それは、米国のニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポスト、英国のガーディアン、仏のル・モンドといった大手新聞から、米国のウォール・ストリート・ジャーナル、英国のエコノミストといった経済紙にまで及んでいる。
 さらに、国連のアントニオ・グテーレス事務総長も22日、「極めて心配な事態だ。アマゾンは保護が必要だ」との声明を出した。
 この状況に対し、フランスのマクロン大統領は22日、アマゾン問題について話し合うため、急きょ、「G7(米国、英国、フランス、ドイツ、日本、カナダ、イタリア)の首脳会談を行いたい」と呼びかけた。
 マクロン大統領は以前から、気候変動抑制のための国際協定である「パリ協定」遵守を求め、守らない場合はEUと南米共同市場(メルコスル)との自由協定は結ばないとボウソナロ大統領に釘をさしていた。
 こうした国際的な批判に対し、ボウソナロ政権は当初、反発を示した。大統領府安全保障室(GSI)長官のツイッターアカウントでは22日、同問題に関する声明が繰り返し発表されたが、最初は「誰が火をつけたのか」の犯人探しに終始。5回目になってやっと、火災対策に言及した。
 オニキス・ロレンゾーニ官房長官も「欧州諸国が環境問題を使ってブラジルの農業生産や貿易に障壁を設けようとしている」とし、「なぜそんなにブラジルを苦しめたがるのか。それはブラジルが鉱物その他のコモディティの世界的な輸出国で動植物の生態的多様性を持つ国だからだろう」と皮肉った。
 ボウソナロ大統領もツイッターでG7招集について「21世紀にもなって、帝国主義国が植民地を扱うかのようだ」と反発をした。
 だが、国際世論の圧力は避けられず、ボウソナロ大統領は22日夜、大統領府に農務、国防、外務、環境関係の閣僚を集め、緊急対策会議を行って、森林被害を減らす対策などを討議した。同件の会議は翌日も続いた。
 また、リカルド・サレス環境相も、政府機関や第3セクター(国や自治体と民間が合同出資・経営する企業や非営利の市民団体)、学究機関に民間団体を集めたアマゾン保護の団体創設に言及。「違法伐採や森林火災の監査、抑制と共に、森林の住民にも経済発展の恩恵を受けさせねば」とした。だが、「伐採が増加傾向にあるのは否定しないが、現政権のせいではない」とも語っている。

アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(4)=強制収容所になったアカラ植民地 ニッケイ新聞WEB版より

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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(4)=強制収容所になったアカラ植民地 ニッケイ新聞WEB版より

戦時下の状況について厳しい顔で話す山田元さん(2019年7月25日撮影)

 1941年12月7日(ハワイ時間)、米国のハワイ準州オアフ島真珠湾において日本海軍による攻撃が行われ、米国との戦争が始まった。祖国から遠いアカラ植民地だったが、42年1月に対日国交断絶が布告されると、邦人は敵性国人として扱われた。
 日本移民たちは家宅捜索を受けた。日本文字の書類及びラジオ等の没収、日本語会話の禁止、3人以上の集会禁止などが命じられ、違反者は投獄された。
 その時、山田元さんは精米所に通う働き詰めの日々を過ごしていた。禁じられていた日本語の勉強も隠れて行っていた。「幸いなことにうちの母は交際家だったからね。ブラジル人との付き合いもあったし、家族は牢屋に入れられることはなかったですよ」。
 同年8月18日、ベレン沖でブラジルの商船がドイツ潜水艦に撃沈されると、山田家の状況は一転した。ベレン在住の日本人の家を、ブラジル人の暴徒が襲撃放火をする事件が相次ぎ、日本移民は命の危険にさらされた。
 さらに連邦政府は、アカラ植民地自体を枢軸国人の強制収容地区に指定したので、サンタレーンなどパラー州全体から日本移民が立ち退かされてここへ集められた。多くの同胞はそれまで築いた財産を捨てて、着の身着のままで逃げ込んできた。
 アカラ入植者たちは貧しい暮らしながらも、気の毒な在伯同胞を各家庭に受け入れた。元さんの家にも、ベレンから来た2家族を受け入れた。「高島さんと渡部さんという家族を、1年くらい預かりました。8人ぐらいだったかな。よく仕事を手伝ってくれたんですよ」。
 こうして敵性国人としての重圧を受けつつも、アカラ植民地の人々は日本の勝利を信じ続けた。こっそりと聞く東京ラジオが伝える大本営発表の祖国大勝のニュースに一喜一憂し、戦果に酔いしれた。
 ところが45年8月14日(ブラジル時間)、東京ラジオから流れてきたのは全日本国民へ発表された、全面降伏を認める玉音放送だった――。
 祖国敗戦の絶望的な知らせは、人々の心を打ち砕いた。帰ろうと願い続けた故郷の消滅。アカラの人々の多くが、永住を決意せざるをえなくなった。(つづく、有馬亜季子記者)

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